わかちあい   
だいじょうぶ 
Tuesday, June 22, 2010, 18:59 -
● だいじょうぶ ●
~ベイ神父誕生に寄せて~

片柳 弘史


1 神学生時代の思い出
 ベイ神父のことを思い出すと、優しい笑みを浮かべながら、「だいじょうぶ、片柳さん」という彼の顔がいつも真っ先に思い出される。ベイ神父とは三年間、神学生共同体で一緒に生活した。そのあいだに、彼の口からこの言葉を何回聞いたか数えきれない。わたしが勉強のことや共同体生活のこと、イエズス会員としての適性のことなどで悩み、考え込んでいるのに気づくと、ベイ神父はいつも「だいじょうぶ。何も心配ない」と言って励ましてくれた。事態が深刻なときには、夕食のあと一緒に散歩をしたり、飲みながら夜遅くまで話したりしたこともあった。
 今から思えば、「だいじょうぶ」という言葉は、豊かな人生経験に裏打ちされた彼の揺るぎない信念のようなものだったのだろう。会社や軍隊での体験、神学生としてのさまざまな体験が、彼の中に神の御旨に対するしっかりとした信頼を培っていったのだろうと思う。「どんなときでもイエス様が一緒にいて下さる。だから、何も心配することはない。
「だいじょうぶ。」ベイ神父は、全身でそのメッセージをわたしに発していた。
 そのメッセージを受け取ったのは、わたしだけではないだろう。ベイ神父は、どんな人に対しても一貫して優しい人だった。ある時、どうしたらいつもそんなに穏やかでいられるのかと聞いたことがある。すると彼はしばらく考えてから、「嫌なことがあったら、その嫌なことをよいことにして相手に返す。イエス様とそう約束した」といつもの穏やかな口調で語った。そのとき、わたしは「ああ、この人はわたしと違う。この人はイエスにすべてを委ねている」としみじみ思った。
 実際のところ一緒に住んでいた三年のあいだ、彼が誰かの悪口を言ったり、憎しみや怒りの感情に飲み込まれたりしているのを見たことがない。自分では受けとめきれないほど嫌なことでも、イエスにお捧げすれば「だいじょうぶ」、イエスがよいものにして返して下さるということなのだろう。ベイ神父は、すべてをイエスに委ねて生きているのだ。

2 友として
 司祭には人それぞれに違ったよさがあると思うが、それらの一つひとつがイエスのある一面を表現しているのだと思う。イエスの情熱を体現する司祭。イエスの共感を体現する司祭。イエスの賢明さを体現する司祭。イエスの謙遜さを体現する司祭。いろいろな司祭がいる。
 ベイ神父の場合、その人柄が最もよく表現しているのは、イエスの優しさと神への信頼だと思う。彼の笑顔を通して、これから数えきれないほど多くの人々がイエスの笑顔を見ることになるだろう。「だいじょうぶ」という言葉を通して、悩み苦しむたくさんの人々が神への揺るぎない信頼に導かれていくことだろう。
 日本と韓国、近くて遠いこの二つの国を結びつける懸け橋として、「神の国」の働き手として、イエスの目に見える姿として、これからのベイ神父の活躍が大いに期待される。
いつの日か、またどこかで一緒に働けることを願ってやまない。

(かたやなぎ ひろし 六甲教会助任司祭)
※ベイ神父は母国韓国にて司祭叙階されました



蓼科山頂上にて(左:ベイ神父、右:片柳神父)
 
  Login Administrator

 

 
  @copyright 2009 Japan SJ