わかちあい   
社会の中で弱い立場に置かれた人々とともに 
社会の中で弱い立場に置かれた人々とともに
            小暮康久(2008年当時イエズス会中間期生)

「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す。』(出エジプト記3章7-8節)

神を突き動かしモーセを遣わせしめたものは、エジプトの地で苦しむイスラエルの人々の叫びと痛みだった。つまり、弱い立場に置かれた人々の叫びと痛みが神の前に決して虚しいものでないことを、この聖書の箇所ははっきりと語っている。
時と場所を隔てた今、この日本の社会においても、同じように弱い立場に置かれた人々の苦しみと叫び、そして痛みが確かに存在している。
私は現在、新宿区河田町にある「社会司牧センター」に中間期生(2年間)として派遣されている。中間期とは、イエズス会の養成の過程で、哲学期(2年~3年間)と神学期(4年間)の間に位置づけられる期間であり、哲学・神学といった勉学の場ではなく、実際の使徒職の働きの場で、将来に渡ってイエズス会員としてのアイデンティティを深め、統合し、実現していくことが出来るかどうかが試される期間だと言える。
この中間期で、具体的には、主に移住労働者(Migrant)の人たちや、難民(Refugee)の人たち、また野宿労働者(Homeless)の人たちと関わっている。彼らは例外なくこの日本の社会の中で弱い立場に置かれた人々である。
東京都足立区では「むすびの会」という小さなグループを中心にして、主にフィリピン人移住労働者の人たちに関わっている。ビザ、仕事、健康、家庭内、子供たちの学校など相談の内容は様々だが、それらの問題の根底には、かれらの非常に弱い立場というものがある。そこには、彼らの弱い立場を当然のことのように利用し使い捨てる日本社会の冷酷な現実-働いてもらうが決して人としての権利は与えない-という冷酷な現実が横たわっている。
また、ビルマやクルドからは多くの人たちが政府の弾圧から逃れるためにこの日本に来ているが、かれらは「難民」として認められずに、単なるオーバーステイとして逮捕され収容されている。本国に強制送還されれば本当に命の危ない人々が、苦しく不安な日々を送っている。そんな彼らに日本は冷たく「帰れ」と言うのである。
同じ人間として、かれらの抱える苦しみと痛み、悲しみに出会うとき、本当に胸が締め付けられる思いがする。「どうして!」「同じ人間だろ!」と叫びたい衝動に駆られることもある。
社会の中で弱い立場に置かれた人々とともにいる時、彼らの目線から社会を見る時、はじめて、社会の中にうごめく反福音的な価値観やその動きというものが見えてくる。何故なら、それら反福音的なものとは、まさにそのような弱い立場に置かれた人々を虐げ、切り捨てようとする動きに他ならないからである。そこでは「人」は「物」のように扱われ、「一人一人のかけがえのなさ」は消失する。
反対に、かれらとともにいる時、最も大切なものがはっきりと浮かび上がってくる。最も大切なもの、それは何よりも私たち一人一人の存在(persona)である。それは、神を動かすことができるほどに重く大切なものなのである。どんな小さな者をも軽んじてはならないことの理由がここにある。
考えてみれば、主イエスは野宿者(Homeless)として馬小屋で生まれ、ヘロデの迫害を逃れて難民(Refugee)としてエジプトに渡り、エジプトの地では移住者(Migrant)として過ごしたのである。私たちの神は、はじめからかれらともに歩いていらっしゃるのである。

 
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