わかちあい   
ヤコブ・ベルティユー(2月4日) 
2月4日
福者ヤコブ・ベルティユー
司祭、殉教者

 ジャック(ヤコブ)・ベルティユーは、1838年11月27日、フランスの農家に生まれた。サンフルール教区の神学校で勉強し、1864年5月21日、叙階された。9年間田舎の小教区で叙任として働いてから、1873年10月31日、35歳の時、ポーでイエズス会に入った。修練の2年目はルプイー近くの神学院で神学の復習で過ごした。そこでラミエール神父の講義を聞き、み心への信心を大切するようになった。修練の2年目も終わらないうちに、トゥールーズ管区の宣教地区であったマダガスカルに派遣された。そこに上陸すると、すぐサントマリー島に配置されたが、そこへ赴く前に、1875年11月13日、初誓願をたてた。
 4年間、平穏のうちに宣教司牧活動に従事したが、1880年3月にフランス政府が本国からイエズス会を追放した際、マダガスカルにいるフランス人のイエズス会宣教師も影響された。ベルティユー神父は9月の終わりにサントマリーを離れ、本島に戻った。先ず首都(当時はタナナリヴェ)で、次に南部(フィアナランツォアの近辺)で活動ができたが、これも中断された。1883年、マラガシ族とフランスとの間で戦争が勃発したので、宣教師たちが西岸の港町タマタヴェに収容させられた。ところで、北部のフランス軍の従軍司祭が必要となったので、ベルティユーは手伝いに行った。1885年に停戦条約が締結されてから、彼はアンボシトラまで行ってそのミッションを再開した。
 1891年に変彼はタナナリヴェの近くで新しい宣教地を開いた。18の巡回地を巡り、魂の司牧のほか、農業の改善法、社会福祉、建物の建築などにも力を貸した。1895年、フランスに対してマラガシ族が新たな反乱を起こした時、ベルティユーは一時的にレウニオン島まで退いたが、停戦になった時に戻った。しかし、今度はメナランバ族が反乱を起こし、白人やキリスト教徒を殺害し始めた。フランス軍司令官は安全のためマラガシの人々を特別防衛地区に集中するように命じた時、ベルティユー神父は彼らに伴った。それから6月6日にタナナリヴェの方が安全だろうと言われたが、彼らはそこへ移動していく途中、メナランバ族に襲われた。近くの村に避難したが、6月8日の朝、ベルティユー神父は捕まえられた。彼を殴って怪我させてから捕獲者たちは手錠をかけて冷たい雨の中で歩かせたが、途中でずっとあざけったり虐待したりした。その夜、彼をどう扱えばいいかに困り、福音宣教を止めたら自由にすると言ったりして説得したが、彼は死んだ方がましだと答えたので、数回銃弾で撃たれてからこん棒で打ち倒されて死んだ。遺体は川に放棄されたままである。
 ジャック・ベルティユーは1965年10月17日、教皇パウロ6世によって列福された。
 「聖イグナチオのこの本物の弟子の取次ぎとすばらしい模範によって、神が私たち皆、特に愛する宣教師たちを、主キリストの忠実なしもべとして強めてくださり、またいくらつたないとも思われるすべての働きの中で神と人間への愛を注いでくださいますように祈ります。」(P.アルペ総長、AR XIV [1965], 650)


 
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