わかちあい   
パウロ三木、聖ヨハネ五島、聖ヤコブ喜斉(2月5日) 
2月5日
聖パウロ三木、聖ヨハネ五島、聖ヤコブ喜斉
修道士、殉教者


 この3名のイエズス会員(それぞれ33歳、19歳、63歳)は、日本の殉教者の初穂である。彼らを含めた二十六名は、1597年2月5日、長崎の西坂で十字架にはりつけにされた。1627年9月14-15日、教皇ウルバノ8世によって列福、1862年6月8日、ピオ9世によって列聖された。
 1549年にフランシスコ・ザビエルが日本に上陸した後、キリスト教は次第に民衆の間、そして大名たちの間にも広まっていた。織田信長は安土城の近くにあったイエズス会のセミナリオに興味を示し、後を継いだ豊臣秀吉はしばらくこの「南蛮人」を大目に見ていたが、やがてフィリッピンなどで起きたようなスペインの侵攻を懸念し、警戒し始めた。ガスパル・コエリョ管区長が愚かにも博多湾で会所属の軍艦を案内した翌日1587年7月25日、秀吉は外国人宣教師の国外退去を命じる布告を発した。この布告は文字通りには実施されなかったため、宣教師は自粛して活動を続けた。ところが、1596年の秋に起きたサン・フェリッペ号事件は、宣教師たちの逮捕へとつながった。3年前にマニラから来日したフランシスコ会員6名と信徒協働者15名が捕らえられ、さらに今日記念する3名も捕らえられた。長崎へ引かれていく途中でもさらに2名の信徒が加えられた。
 聖パウロ三木は1564年に摂津の国に生まれ、幼い頃に家族と共に洗礼を受けた。20歳の時、イエズス会の安土のセミナリオに入り、2年後の1586年8月にイエズス会に入会した。仏教の僧侶との論争術に長け、数名の僧侶を洗礼まで導いた。有馬や大村で説教しに来るように頼まれた。1596年12月9日、大阪のイエズス会の家で逮捕された。数ヵ月後には司祭となるはずであった。
 聖ヨハネ五島は1578年に五島列島で、信徒の家庭に生まれたが、迫害が起り、家族は長崎に渡った。彼は15歳でイエズス会入会を希望したが、入会する前に、同塾として宣教活動に手伝うように頼まれた。逮捕された時、大阪の会宅に住んでいた。すでに神学生としての身分だった可能性がある。殉教の前日に、長崎の会員の一人がヨハネとヤコブの会員としての誓願を受けた。
聖ヤコブ喜斉は1553年岡山の近くに生まれた。若い頃僧侶から教育を受けたが、後に洗礼を受けた。改宗者の女性と結婚して息子ももうけたが、妻が仏教に戻った時、妻を離縁し、息子を信徒の家族に迎え入れてもらった。大阪に移り、イエズス会の家の門番と来客係りを勤めた。信仰箇条をよく理解していたので、宣教活動も依頼された。1596年にブラザーになったと思われる。
 この殉教者たちへの公のさげすみや長崎への苦難の道は、周知の通りである。十字架から語ったパウロ三木の言葉を含む殉教の現場からの報告は、今日の「教会の祈り(読書)」のなかで伝えられている。

 
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