わかちあい   
聖アンデレ・ボボラ(5月16日) 
5月16日
聖アンデレ・ボボラ、司祭 殉教者


 アンデレ・ボボラは、1591年11月30日、ポーランド南部の熱心なカトリックとして知られた家庭に生まれた。1606年に北部のブラニエヴォに行き、イエズス会学校で学んだ。1611年7月31日、イエズス会に入会した。リトアニアの首都ヴィリニュスで養成を終え、1622年3月12日に司祭叙階を受けた。(その日はイグナチオとザビエルが列聖された日であった。)
ニエスヴィエチで第三修練をし、さらにその町で1年間、イエズス会学校に隣接する教会で働くことになった。当時の彼についての情報は、衝動的性格に触れている。「ボボラ神父は口を慎まないし、長上たちに対する従順に欠けるようである」。1624年にヴィリニュスで説教やマリア信心会の指導などの司牧に従事した。協力者を募って、一緒に囚人や貧しい人たちを訪問し、子供たちに要理を教え、ペストに倒れた人たちを世話した。1630年にポーランド東部のボブルイスクに行き、司祭不足のために東方正教会に転向したローマ・カトリック信徒のために教会を建て、以前の信仰に復帰させるさまざまなきっかけを提供した。
1633年から1655年まで方々の町や都市で、特にヤノヴで働いた。1643年にベラルーシのピンスクに赴き、ラジヴィル公爵の提供した基金で学校を設立し、反カトリック感情をかなり和らげた。1646年以後、健康が優れないため、彼の活躍はおもにヴィルニュスとなった。
ブレスト=リトヴスク協定(1596年)によって、ローマ系とロシア系の教会が平和的に共存することになっていたが、ロシア側の過激的なコサック騎兵がこの共存を崩そうと動き出した。1652年にコサックの攻撃で破壊された学校と教会を建て直すために、ボボラはピンスクに呼び戻された。2年後、ロシアとスウェーデンがポーランド・リトアニア地方に進軍してきた。1657年5月ピンスクがコサックに占領された時、ポーランド系の信徒は森林の中へ逃げた。そこで5月16日にボボラ神父はコサックに捕らえられた。棒や鞭で打ちのめされたあと、ヤノヴの肉屋まで馬に引きずられ、数時間に及ぶ残忍な拷問の後、殉教者の死を遂げた。拷問のさ中に発した言葉は、「愛する子たちよ、何をしているのか。神があなたたちとともにおられますように。主よ、み旨が行われますよう。イエス、マリア、み手に私の霊を委ねます」とだけであった。
1853年10月30日、教皇ピオ9世によって列福され、1938年4月17日(復活の主日)にピオ11世によって列聖された。彼の殉教三百年(1957)に、ピオ12世は回勅『インヴィクティ・アスレテ(不屈の勇者)』を発表し、ボボラを新たに称えた。
「彼の力強いとりなしを願いましょう。それはイエズス会、特に彼を守護の聖人としているスラブのアシステンチアのためだけでなく、列聖のホミリアで教皇が言及したように、信仰の擁護と宣教のためにも。分裂した人々が待望の教会一致に戻るように願いましょう。」(W.レドホフスキ総長、AR IX [1938], 203)

 
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