わかちあい   
ホセ・デ・アンチエタ 

6月9日
ホセ・デ・アンチエタ

司祭

 1534年3月19日、ホセ・デ・アンチエタはカナリア諸島のテネリフェ島でバスク系の家庭に生まれた。ポルトガルに赴き、コインブラのイエズス会学校で1年学び、1551年5月1日にポルトガル管区に入会した。修練の間、梯子の下敷きとなって、そのため背骨が曲がり、生涯痛みが消えることはなかった。ブラジルの気候が健康の良いと思われたので、修練が終わり、19歳の時にホセはブラジルのミッションを希望し、派遣された。44年の長きにわたり、そこで現地人に神のみ言葉を広め、彼らの生活振りの改善に尽くした。
 1553年7月13日、ホセは6人の仲間と共にバイヤに上陸し、そこで初めてツーピ族の原住民に出会った。10月、サンヴィセンテに行き、短期間でツーピ族の言語を身につけた。1554年1月、地区長マヌエル・ダ・ノーブレガ神父が新しいミッションと学校を設立しに出かけるのに同伴し、現在のサンパウロに着いた。そこで初めてミサが捧げられたのは1月25日、聖パウロの回心の祝日だったので、そのミッションに聖パウロの名が付けられた。ホセはサンパウロで司祭志願者にラテン語を、ツーピ族やポルトガル人の子供たちにカトリック要理を教えた。翌年にツーピ語の文法書をまとめ上げ、数年後には辞書を作成した。その後11年間、通訳者としてノーブレガ神父と旅をする以外、ずっとサンパウロ地方で過ごした。
 1566年6月、32歳となったホセはバイヤの大聖堂で司祭叙階を受けた。翌年ノーブレガ神父に伴い、後にリオデジャネイロ市となる場所でミッションを開いた。アンチエタはサンパウロとサンヴィセンテの地区長と任命された。その頃から学校の生徒たちが演じる戯曲を書き始めた。それは聖書物語や教会の教えをテーマとしたものであり、ブラジルで執筆されたものとして最初なので、「ブラジルの使徒」となったアンチエタは「ブラジル文学の父」とも呼ばれている。
 1577年、アンチエタはブラジル全体の管区長と任命された。2,400キロに及ぶ海岸線を持つ管区を訪問するには、船と足で回るしかない。背骨が曲がっていたので馬に乗れなかった。健康が衰えても、思慮深い長上、優れた指導者となった。1587年に管区長の仕事を終えて、おもにエスピリト・サントというミッションで10年間働き、詩や劇を書き続けた。
 1597年6月9日、レリティバという町で息を引き取った。その町は彼にちなんで、アンチエタと改名された。1980年6月20日、ヨハネ・パウロ2世によって列福された。
 「宣教師と神秘家、とても実践的なセンスを持った詩人。主と貧しい人々への愛に燃え、人々にも自然にも親しむ。学問に通じながらも慎ましく、病弱に負けない快活さを持つ。物がなくても工夫に富む。彼の輝かしい人柄は我々を決して威圧することもなく、かえって引き寄せてくれる。」(P-H.コルベンバッハ、AR XXII [1997], 139)

 
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