わかちあい   
アントニオ・バルディヌッチ 
7月2日
福者アントニオ・バルディヌッチ
司祭


 アントニオ・バルディヌッチは1665年6月19日、イタリアのフィレンツェで生まれた。家庭は貴族だったが、かつてほど裕福ではなかった。アントニオは11歳でイエズス会の学校に入った。2年後、兄がドミニコ会に入会したので、自分も続こうと思ったが、健康が優れなかったので、父親は許さなかった。その代わり、イエズス会員の指導で霊操をし、神のみ旨を求めるように勧めた。結果として、1681年4月21日、ローマのサント・アンドレアの修練に入った。
 アントニオは健康のために、ローマ郊外にしばしば行くように言われた。そこで田園生活とそこの人々を知り、彼らに神の言葉を告げる人がいないことに気付いた。入会後9年間、3度もインド、中国、日本へ宣教師として派遣されるように願ったが、健康のためにいつも断られた。神学の勉学中、日曜日の午後、町の広場で近くの教会で行われる巡回司牧(ミッション)に人々を招いた。実に、アントニオ自身も地元での宣教師として活躍することになった。
 1695年10月28日、司祭叙階を受け、1697年からはまずローマの北にあるヴィテルボで、その後長年、ローマ南のフラスカーティで協働司祭となった。アクアヴィヴァ総長は、イエズス会の各教会で巡回司牧のために、少なくとも二人の司祭を当てるように指示していた。バルディヌッチ神父は、イタリアの町や村を巡り、巡回司牧や黙想指導する使徒職を20年間もたずさわった。
 悪天候にもめげず、目的地までいつも裸足で歩き、「神が私の苦しみによって私の言葉を聞く人々の心を動かしてくださるように」と願っていた。それぞれの場所に一週間ないし二週間滞在し、霊操の黙想を題材にした説教を行った。大きな額縁に入った「罪人の拠り所」である聖母マリアの絵画をいつも携え、それを背景にして説教した。活き活きと話し、内容は分かりやすく、聞き手の心を揺さぶるものであった。説教のほか、告解を聴いたり、子どもたちに要理を教えたり、病人を訪問したりした。滞在の最後に、かがり火を灯し、世俗的な本や歌集、トランプ、さいころなどを投げ込むように呼びかけた。ある時、240本もの短剣や21丁の拳銃が彼の足元に捨て置かれた。そして、良いキリスト者として生き、秘跡にあずかるように奨励する信心会を作り、去った後にも効果が持続するように図った。
 彼の日記によると、1697年と1717年の20年間、30の司教区を回って、448回の巡回司牧を開いた。平均して、毎年22回である。深い祈りと厳しい苦行の人として知られ、人々は彼の聖性を認め、彼が先頭に立つ苦行行列にも加わった。彼が奇跡を行うのを見たと言う人さえいた。
 1717年10月26日、ある巡回司牧の最中、健康を害し、最期だと自分でも感じていた。11月5日に秘跡を受けた後、二日間帰天する準備として「イエス、マリア、私の希望」と祈っていた。11月7日に亡くなった。
 1893年4月23日、教皇レオ13世によって列福された。

 
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