わかちあい   
ペトロ岐部(司祭)と同志殉教者 
7月1日
福者ペトロ岐部(司祭)と同志殉教者
(日本188福者殉教者)


[2009年11月24日、教皇ベネディクト16世は日本の188殉教者を列福した。この中にイエズス会の司祭3名とブラザー1名、アウグチノ会の司祭1名が含まれたが、他の183名は様々な年齢の日本人信徒であった。以下の4名は、イエズス会員である。]

 福者ペトロ岐部は1587年、九州北部国東半島に生まれた。両親は信仰の篤い信徒であった。1600年、13歳のペトロは有馬のセミナリオに入った。卒業の間近、イエズス会入会を希望したが、断られた。いずれ入会しようとひそかに願をたてた。日本の教会に迫る緊迫した状況の中で、8年間同宿として働いた。1614年追放された宣教師たちに伴い、マカオに赴いた。そこで神学の学習を終え、司祭になろうとしたが、マカオに着いて間もなく、神学院が閉鎖された。司祭になるためには、マニラかゴアに行くこともできたが、岐部はローマへ向かうことにした。インドまでは船で、その後中近東を歩き、エルサレムで十字架の道行きをして、1620年5月、ついにローマのイエズス会本部の扉をたたいた。彼の旅の話は、当時のアクアヴィヴァ総長に深い感銘を与えた。ローマの教区司祭のための神学院に入学し、同年11月15日に司祭の叙階を受けた。その五日後、ローマの修練院に入った。1622年3月12日に行われたイグナチオとザビエルの列聖式にあずかった。
 修練がまだ終わらないうちに、日本に帰る許可を得て帰路に着いた。まずリスボンで修練を終えて、初誓願をたてた。そこからゴア、マカオ、そしてマニラへ。難破など多くの困難を越えて、ついに司祭として長崎にたどり着いた。続く数年間については資料がないが、1634年フェレイラ管区長が拷問の最中で棄教した頃、岐部は長崎を去り、まず五畿内、そして東北で活躍したが、1639年、仙台で捕えられ、江戸に護送された。宗門奉行井上筑後守が家光に報告した文は、適切な碑文となる。「キベヘイトロはコロび申さず候。ツルシ殺され候。」最後までキリストに命を捧げる彼の決意は、揺らぐことがなかった。

 福者ジュリアン中浦は、1567年、西彼杵半島に生まれた。父親は武士だったが、戦死したので、信仰深い母親に育てられた。ジュリアンは12歳で有馬のセミナリオに入った。そこで日本の視察に来ていたヴァリニァーノ神父はジュリアンと他3名の若者を選んで「天正少年使節」としてローマに送った。教皇グレゴリオ13世の謁見の日、高熱を押して出てきたジュリアンの姿を見て、84歳の教皇は涙を流したという。使節は8年越える歳月を経て、1590年7月21日に日本に戻り、翌年秀吉に謁見後、4人とも天草でイエズス会に入った。八代でしばらく活躍して、神学を修得するためにマカオに渡った。そこでは理由も告げられずに司祭叙階が延期された。1604年に日本に戻り、まず有馬、次に京都、そして博多で働いた。1608年、長崎でついに叙階を受けた。
 1614年の幕府の追放令のもと、27名の司祭が日本に残り、潜伏して司牧に従事することになったが、ジュリアンはその一人だった。天草をはじめ九州の信徒たちを訪問し教えた。外国人宣教師は捕縛されて死刑に処せられたが、目立たない服装で歩き回る日本人だったためか、なかなか捕まらなかった。ついに1632年の終わる頃、ジュリアンも捕えられ、長崎の牢に投獄された。彼の存在の重みを知っていた奉行は棄教を激しく迫り、責めは10ヶ月間続いた。1633年10月18日、他の7名の修道者と共に穴吊りの拷問にかけられた。ジュリアンは自ら名乗った。「私はローマへ行った中浦ジュリアン神父です。」四日後の10月21日、「この大きな苦しみを神の愛のため」と祈りながら帰天した。

 福者ディオゴ結城了雪は、1574年、現在の徳島県で武士の家柄に生まれた。祖父は足利将軍の弟であった。彼の洗礼のいきさつは定かではないが、少年ディオゴは安土から高槻に移されたセミナリオで学んだ。1587年の禁教令を受けて、そのセミナリオは有馬のセミナリオと合併した。ディオゴは1597年、天草でイエズス会に入会し、1601年から1604年にかけてマカオで神学の勉学期過ごした。その仲間の中にジュリアン中浦やクリストバル・フェレイラ(後に棄教した管区長)もいた。帰国後、伏見教会に奉仕者として派遣された。そこから生まれ故郷の徳島を訪れた。1612年に長崎に移り、叙階の準備をしたが、司教も死に、1614年の宣教師追放令もあり、司祭叙階が延期された。ディオゴは高山右近とともに追放先のマニラに赴き、翌年司祭叙階を受けた。
 1616年、ひそかに長崎に戻り、同宿ミカエル草庵とともに都に派遣された。京都、大坂を拠点に、五畿内、四国、江戸にまで司牧の範囲を広げた。さらに追放令で津軽に流された信徒たちを訪ねて、励ました。1619年10月6日、京都鴨川のほとりで52人の信徒(今日の記念に含まれた者)が火あぶりにされた場にもいた。1636年、ついに四国山中で捕らえられ、尋問のため大坂に送られた。2月25日、最後までディオゴに伴ったミカエル草庵とともに穴吊りの刑に処された。

 福者ニコラオ福永ケイアンは、近江永原(現在の滋賀県)でキリシタンの家に生まれた。安土のセミナリオで学び、1588年にイエズス会に入会した。天草のコレジオを経て、ブラザーとカテキスタの召命を生きるようになった。その後博多の教会で働いたが、1614年の追放令によってマカオに渡った。
 1619年、ひそかに帰国し、大村に活動の場を得た。会員の同胞は彼を司祭に推薦したが、司教のいない日本ではその道はなかった。1633年、長崎で投獄された際、ジュリアン中浦その他、天草時代の仲間たちも一緒だった。7月28日、穴吊るしの拷問が始まった。そこで、「悔しいことがないか」と挑発する役人に、ニコラオは、「一つあります。将軍様はじめすべての日本人をキリストへ導くことができなかったことです」と答えた。3日後の聖イグナチオの日に、聖母マリアの連祷を唱えながら帰天した。

 [文献:日本カトリック司教協議会、列聖列福特別委員会編「ペトロ岐部と一八七殉教者」]

 
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