わかちあい   
ユリアーノ・モノワール 
7月2日
福者ユリアーノ・モノワール
司祭


 ユリアーノ・モノワールは1606年10月1日、フランス北西部のブルターニュ地方の小さな村に生まれた。1620年、レンヌのイエズス会学校に入った。学校の会員は彼の霊的生活への憧れに気付き、黙想の仕方を教えたり、中国、日本、カナダへの宣教師たちのことを話したりした。ユリアーノはカナダへの派遣を望んで、1625年9月16日、パリでイエズス会に入会した。ラフレシュで哲学を学んだ仲間に、その後北米で殉教したイザーク・ジョーグがいた。
 1630年、中間期としてカンペールの学校でギリシャ語やラテン語を教えた。ある日、生徒たちと聖母マリアの教会へ巡礼をしている時、ブルターニュ地方の言語を学んで、ブルターニュの蔑にされている人々にカトリック信仰を知らせようと決心した。彼自身はフランス語が言語となったブルターニュの東部で育ったので、ブルターニュ語が分からなかったが、短時間でこの難しい言語を習得し、日曜日ごとに説教できるようになった。
 神学はブールジュで学んだが、そこはカナダを目指す宣教熱が燃えていた。カナダへ派遣された三名の仲間の一人は、殉教者ガブリエル・ラルマンだった。ユリアーノはカナダかブルターニュかと迷っていた。1636年12月、高熱となり、左腕が炎症を起こしてえそとなり始めた。命の危険を感じ、クリスマスの前夜、臨終の聖体を受ける時、願をかけた。もし健康が回復すればブルターニュ人に一生を捧げると誓った。そして数日のうちに回復した。1637年6月6日、司祭叙階を受け、勉学の最後の一年をブールジュで過ごした。
 モノアール神父は、1640年カンペールに配属された。仲間の司祭とともに、ブルターニュ半島や、司祭が長年寄らなかった沖の島々を巡った。ブルターニュ人の多くは信仰の内容をまったく知らなかったので、モノワールはカトリック信仰の基礎をしっかりと教えた。彼は巡回して司牧した。一か所に四、五週間滞在し、一、二万人もの人々が集まったという。著名な先輩宣教師から視覚教材や信仰の内容を歌詞とする歌などを譲り受けて、利用した。また自分でも要理学習のために、有名な歌の替え歌を作った。集まった人たちは一緒に覚えたので、神父が去った後も、この歌を歌って、信仰内容を思い起こした。
 彼が成功するのを見て、多くの教区司祭もこの「良き神父」に協力したいと申し出た。協働者はやがて千人にも達したので、彼の死後もよい効果を挙げ続けることができた。彼はブルターニュ人に43年間奉仕し、400回もの巡回司牧会を開いた。しかも毎年一ヶ月間は休養して、霊的な著作活動に従事した。
 1682年末、ある滞在地から次に移動する途中、死が近いと悟った。疲れ果てて肺炎にかかり、1683年1月28日、この「ブルターニュの使徒」はプレバンという町で息を引き取った。カンペールの司教は司教座聖堂の中に彼を葬ろうとしたが、プレバンの人々は自分たちのところで最期を迎えた聖人の遺体を引き渡そうとしなかったので、今でもそこで眠っている。
 1951年5月20日、教皇ピオ12世によって列福された。

 
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