わかちあい   
聖ステファノ・ポングラツ、聖メルキオル・グロディエツキー、聖マルコ・クリジェフチャニン 
9月7日
聖ステファノ・ポングラツ、聖メルキオル・グロディエツキー
イエズス会司祭、殉教者
聖マルコ・クリジェフチャニン、教区司祭、殉教者


 聖ステファノ・ポングラツは、1583年、トランシルヴァニアで生まれた。イエズス会学校を卒業後、1602年7月8日、ブルノ(モラビア地方)で入会。プラハ(ボヘミア)やグラーツ(オーストリア)で学び、1615年に司祭となった。ある学校で学事担当だったが、1619年の初め、ハンガリア人に司牧するため、コジチェ(ハンガリー北部の首都、現在はスロヴァキア)に派遣された。
 聖メルキオル・グロディエツキーは、1584年、シロンスク(現在はポーランド)で生まれた。ウィーンのイエズス会学校を卒業、1603年5月22日、ブルノで入会した。そこでポングラツに初めて出会った。プラハで学び、1614年に司祭となった。プラハで教師や説教家として活躍したが、スラブ系とドイツ系の信徒のために、コジチェに派遣された。
 当時のコジチェはハンガリーのカルヴァン派の本拠地であった。1619年、国王の地方代理は、司祭がいないコジチェに居残ったカトリックの世話のため、イエズス会員を二人欲しいと依頼した。そこでポングラツ、グロディエツキー両神父が派遣され、国王代理の館に住むことになった。
 三十年戦争の混乱を利用して、トランシルヴァニアのカルヴァン派の統治者が領土を広めようと、コジチェに進軍すると聞いた二人の神父は、信徒と共にいるため、周辺の町からコジチェに戻った。そこで教区司祭のマルコ・クリジェフチャニンも一緒になった。この神父は、エステルゴム大聖堂の参事司祭で、近くの大修道院の管理者であった。クロアチア生まれだったが、スロヴァキアに移り、ウィーンやローマでイエズス会の教育を受け、コジチェの二人の会員と旧知の仲だった。
 9月5日、コジチェが征服され、そこに三人のカトリック司祭がいることが分かり、監禁され、飲食物も断たれた。6日、三人は互いに告解し、徹夜で祈り、運命に備えた。翌朝、兵士が押し寄せ、棄教を迫ったが、三人の信仰は揺るがなかった。三人は袋叩きにされ、まずクリジェフチャニン神父が幾度も刺され、指もつぶされ、わき腹をたいまつで焼かれ、気絶した時、首を切られた。次いでポングラツ神父も同じ拷問を受け、鼻と耳をそぎ落とされ、天井の梁から吊るされて、体のいたる所に切り傷を受けた。グロディエツキー神父も拷問の末、打ち首にされた。三遺体は汚水に投げ捨てられた。そこでポングラツ神父はさらに20時間も生きて、大声で祈ったという。
 「コジチェの殉教者」三名は、1905年1月15日、教皇ピオ10世によって列福、1995年7月2日、ヨハネ・パウロ2世によってコジチェで列聖された。
 「彼らが耐えた拷問は、私たちすべての使命である証しとつながっています。それは、信仰を試みるものであり、どの時代にも偶像に屈せず、弱い私たちの思いをつねにイエスのみ心に向け直します。」(P-H.コルベバッハ総長、AR XXI [1995], 147) 

 
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