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フランシスコ・パシェコ、カロロ・スピノラと同志殉教者 
9月10日
福者フランシスコ・パシェコ、福者カロロ・スピノラ(司祭)と同志殉教者
日本の殉教者、司祭13名、修道者20名
 
[1867年5月7日、教皇ピオ10世は日本の205名の殉教者を列福した。その中に以下のイエズス会員33名も含まれた。リストは、殉教した年代順で作成されている。]

1617年5月22日
福者ジョアン・バウティスタ・デ・マシャド(司祭)
 1581年ごろアソーレス諸島で生まれ、1597年、コインブラで入会した。1601年にゴアに赴き、マカオで神学を学び、叙階された。1609年、長崎に到着し、都の周辺で5年働き、1614年の禁教令以後長崎に退いて、隠れた形で司牧活動を続けた。尾行されていると忠告を受けたが、五島でハンセン病患者の信徒が集中している島を訪れたところ、捕らえられ、大村に連行された。1617年4月22日だった。フランシスコ会の神父の一緒に奉行朝長次郎兵衛のもとに預けられた。この朝長は背教者だったが、彼らを親切に扱い、ミサを自由にたてることもできたが、やがて斬首の刑に処すよう江戸から命令が来た。処刑される前に、マシャドは朝長の改心を祈った。その祈りが実り、6ヵ月後、朝長次郎兵衛も殉教の死を遂げた。

1619年11月18日
福者レオナルド木村(ブラザー)
 レオナルドの祖父は、1550年10月に平戸でフランシスコ・ザビエルから洗礼を受け、ザビエルから日本で最初に洗礼を受けた人であった。家族はその後、長崎に移り、そこでレオナルドは1575年に生まれた。イエズス会の学校で学んだ。伝道師として活躍し、1602年にイエズス会のブラザーになった。1614年の禁教令の後も働き続いたが、1616年、捕えられ、3年間長崎で獄中でも96名を改宗に導き、牢をキリスト者の共同体に変えてしまった。レオナルド木村は他の4名とともに西坂で火あぶりの刑を受けた。木村家の5名も福者の中に数えられている。

1620年1月7日
福者アンブロジオ・フェルナンデス(ブラザー)は大村牢の中で死んだ。(以下スピノラを参照。)

1622年8月10日
福者アウグスチノ太田(ブラザー)は平戸で斬首の刑で殉教した。(以下コスタンツォを参照。)

1622年9月10日 長崎の西坂での「元和(ガンナ)の大殉教」
福者カロロ・スピノラ(司祭)
 1564年、マドリッドで生まれ、1572年、イタリアのノーラに移ってイエズス会の学校で学んだ。インドで殉教したロドルフォ・アクアヴィヴァの話に感動し、1584年12月23日、入会した。ナポリやミラノで学び、1594年、ミラノで司祭に叙階され、小教区を巡り歩き練成会を開いた。1596年、ジラロモ・デ・アンジェリス神父(1623年12月4日を参照)とともに日本に向けてリスボンを出港したが、アフリカ最南端の喜望峰で嵐に遭い、ブラジルに流された。その後、サンサルバドル島で船の修理のためにさらに5ヶ月手間取った上、航海中海賊に捕らえられてイギリスに連行されたが、やがてリスボンに戻った。2年間の無駄足だった。1599年3月、改めて出帆し、マラッカやマカオを経て、1602年7月、ついに日本に上陸した。
 スピノラ神父は有馬で日本語を勉強してから有江の教会をしばらく担当した。そこから都に移り、数学や天文学を教えたが、1611年、管区の財務責任者に任命されて、長崎に戻った。1614年の禁教令の後も日本に残り、4年も見つからず活動し続けたが、1618年12月13日、ブラザー・アンブロジオ・フェルナンデスと同宿のジョアン中国、すなわち、山口のヨハネとともに捕らえられて、大村近くの鈴田の牢に押し込まれた。柵に囲まれた「鳥の籠」のような狭い空間に多くの囚人が込められ、風雨を遮るものがない状態で過ごした。数ヶ月経た後、見張りが賄賂を受け、ミサに必要な用具がひそかに持ち込まれた。
 ブラザー・フェルナンデスは、1551年にポルトガルで生まれ、1571年に立身出世のためインドに渡った。商人として日本まで来たが、1579年、長崎でブラザーとして入会した。伝道や物的な世話をし、必要に応じて通訳者を務めた。(ヴァリニャーニ神父と秀吉との謁見の際も通訳した。)1618年の12月にスピノラとともに捕縛され、1620年1月7日、獄中で死去したが、殉教者と見なされると記された。
 ブラザー・フェルナンデスが亡くなった後、新たに4名が投獄された。アントニオ・キウニ、ゴンサロ扶斉、ペトロ三浦、ミゲル春浦である。1614まで伝道士として活躍していたが、一時海外へ避難し、1617年に帰国して、長崎近くに小屋を作って修道生活のような暮らしをした。伝道活動をしていたので、司祭と間違えられて1619年に捕縛された。18ヶ月後の1620年の冬、ついに鈴田の牢に連れて行かれた。管区長の承諾を得て、スピノラ神父の指導の下で修練者として受け入れられた。
 セバスチアン木村神父は、1601年9月に日本で初めて叙階された二人の一人であり、レオナルド木村(上記1619.11.18を参照)のいとこである。さまざまな工夫をして変装し、働き続けたが、朝鮮人の使用人に裏切られて、1621年6月30日、捕縛されて鈴田に送られた。伝道士トメ赤星とルイス河原も一緒だった。このルイス河原は以前、背教者千々石ミゲルに仕えていた者だった。この二人の伝道士とジョアン中国は、スピノラ神父の下で修練をしていた他の四人に加わった。
 1622年9月、全員が長崎の死刑場に連行される前に、スピノラ神父はこの7名の修練者の誓願を受けた。鈴田からの25人は、長崎市内からの30人と合流した。修道者は皆火あぶりに、他の者は斬首刑を受けた。会員の中でジョアン中国のみが、火あぶりの柱が一つ足らなかったため斬首刑となった。

1622年9月15日
福者カミロ・コスタンツォ(司祭)
 1571年、イタリア南部のカラブリアに生まれ、1591年に入会し、1602年に叙階された。1603年に中国へ向けて出発したが、マカオで中国に入るのを阻まれたので、1605年に長崎に着いた。堺で実り多い働きをしたが、1614年にマカオへ渡り、そこで執筆活動をした。信仰の擁護する書物と、仏教に精通し、その教えを批判する書物を著した。1621年に日本に戻り、平戸で働いたが、1622年4月22日、アグスティン太田と一緒に逮捕された。
 このアグスティン太田は仏教の僧侶のもとで学んだこともあり、内部から仏教を知っていた。この知識は1585年に受洗してから宣教活動のために極めて役に立った。1621年、平戸でコスタンゾ神父と一緒に働くようになったが、わずか4ヶ月の後、1622年4月24日、二人とも捕縛された。そのうち死刑になると分かり、入会の許可を求める手紙を書いた。コスタンツォ神父は彼を修練者として受け入れ、1622年8月9日、獄生活4ヶ月でブラザーとしての誓願をたてた。その翌日斬首刑に処せられ、遺体は海に投棄された。
 コスタンツォ神父は翌月、平戸の向かいにある田平で火刑に処せられた。

1622年11月1日
福者ピエトロ・パオロ・ナヴァロ(司祭)
 1560年、イタリアン南部のカラブリアに生まれ、1579年に入会、1584年にゴアに送られ、そこで1585年に叙階された。1586年、平戸に到着し、日本語を習得し、日本の風習に適応できるようになった。四国や本州に派遣されたが、現地での迫害のため追放され、九州北部の豊後で長く働いた。1614年の禁教令の後も変装したりして働き続けた。司牧活動の最後の数年、二人の伝道士、ディオニス藤島とまだ十代だったペドロ鬼塚の助けを受けた。1621年12月の下旬、有馬の好意的な領主が彼らを捕らえ、ひそかにマカオに移そうと計らっていたが、三人とも、使用人と一緒に火あぶりの刑に処すように命令が来た。伝道師の二人は殉教の朝、会員としての誓願をたてた。

1623年12月4日「江戸の大殉教」
福者ジラロモ・デ・アンジェリス(司祭)
 1568年、シチリア島で生まれ、法律を学んだ後、1586年にメッシーナで入会した。1598年、リスボンで司祭叙階を受けた。カロロ・スピノラと同じ船で日本に向けて出港したが、日本には4年後の1602年に到着した。(上記参照)。最初の派遣先は都の伏見で、次いで駿府と江戸。1614年の禁教令後、長崎で隠れて働いたが、東北地方にいるキリシタン難民の世話をするように招かれた。
 その頃、シモン遠甫も一緒になった。彼は寺院で育てられたので、仏教を内部から知っていた。1596年、16歳の時、シモンの師である僧侶が洗礼を受けたので、彼も受けた。同宿となり、1614年にマニラへ避難したが、翌年帰国して、デ・アンジェリス神父の同行者となった。二人とも二度、1618年と1621年に蝦夷(北海道)に渡り、そこでデ・アンジェリス神父はその土地と住民(アイヌ人)を調査し、正確なデータを記録したという。1621年、江戸に呼び戻され、江戸で働く会員の長上にされた。彼とシモンは背教者によって密告され、投獄された。看守や囚人の間信者を得た。シモンは獄中で、会員として受け入れられた。1623年に新将軍家光のもとで最初の殉教者となり、芝で他48名とともに火あぶりの刑に処せられた。

1624年2月22日
福者ディオゴ・カルヴァーリョ(司祭)
 1578年にポルトガルのコインブラで生まれ、1594年に入会した。1600年にゴアへの出発し、そこで哲学の勉強を始めた。1601年からマカオで勉学を続け、1608年に叙階された。翌年6月29日、日本に着いた。その時は、キリスト者にとってかなり平穏な一時だった。一年間日本語を学び、天草で2年間働き、1612年に都に移った。1614の禁教令の結果、マカオに追放され、そこから現在のベトナムに住んでいた日本人への宣教を開始することを手伝った。1616年にひそかに日本に戻り、しばらく大村近辺で働き、デ・アンジェリス神父と共に日本の東北地方や蝦夷で働いた。背教者に裏切られ、1624年2月8日、捕縛され、他の12名とともに仙台に連行された。2月18日、広瀬川の冷水の流れに裸で正座させられた後、冷たい冬風に身をさらして立たされた。2月22日に生き残っていた7人は新たに同じ拷問を受け、一人ひとり死んでいった。情報不足のため、一緒に殉教した者は列福者の名簿に載らなかった。

1624年8月25日
福者ミゲル・カルヴァーリョ(司祭)
 1577年にポルトガルのブラガで生まれ、1597年にコインブラで入会した。1608年頃マカオで叙階された。宣教地に派遣されることを望んでいたが、ゴアに残り神学を教えた。ついに1617年、40歳の時、日本へ向けてマカオまで航海したが、そこでまた3年間足止めされた。そこにいる間、ある程度日本語を覚えたので、1621年に天草に到着すると、すぐに働き始めた。隠れて働くことに抵抗を感じ、領主に謁見を願って、大胆に説教し始めた。数日監禁された上、追い返された。長崎近くに上陸すると、ある信徒は彼をパシェコ管区長のところに連れて行った。もっと賢明に働くように注意されたが、次の任地に赴く途中、捕らえられて大村で投獄された。13ヶ月害虫だらけの牢に生きたが、ついに他の4名と大村の放虎原で火あぶりの刑となった。

1626年6月20日
福者フランシスコ・パシェコ(司祭)
 1566年、ポルトガルのブラガ近くに生まれ、1585年12月30日、コインブラで入会した。1592年にインドに派遣され、ゴア、そしてマカオで神学を学んだ。マカオで叙階された後、神学を教えるかたわら、日本語を学んだ。1604年来日し、大坂と堺で働いたが、1608年にマカオの学校の院長に任命された。1612年に日本に戻った時、ルイス・デ・セルキエイラ司教は自らの総代理に任命した。1614年、司教も死に、迫害が始まったので、司祭32名、ブラザーや神学生30名と同宿53名とともに一時マカオに退いたが、彼は翌年変装して日本にまた入った。教区の管理者のほか、1621年に管区長に任命された。安全のため、また会員の連絡を取りやすくするため、長崎から口之津に移った。
 以前宿を貸してくれた人に裏切られて、1615年12月18日、高齢や健康で弱っていたパシェコは口之津で、伝道士パウロ新助とペトロ・リンセイと共に捕らえられ、投獄された。同時に、隣の家に住んでいた管区長補佐、42年間をイエズス会ブラザーとして生活したガスパル定松と若い伝道士ジョアン喜作も捕縛され、ひとまず島原の牢に入れられた。
 ギアンバッティスタ・ツォーラ神父は、1575年にイタリアのブレシャで生まれ、1593年に入会、1602年インドに赴き、1606年に来日した。伝道士ビセンテ・カウンは、13歳の時、朝鮮半島から小西行長の捕虜として日本に連行され、日本で受洗した。この二人はすでに1625年12月22日、別のところで逮捕され、島原に移された。パシェコ管区長は、伝道士たちをイエズス会に受け入れたので、逮捕された他の9名の信徒と共に、獄中で修道生活のような暮らしをした。
 バルタザル・デ・トレス神父は1563年スペインのグラナダで生まれ、1589年に入会し、1586年ゴアに行き、マカオで叙階を受け、1600年に来日した。イエズス会に受け入れていた同宿ミゲル籐蔵が3月20日に捕らえられ、大村に投獄されていた。
 以上の9名とも長崎の西坂で火あぶりの刑に処せられた。一緒だった信徒も3週間後の7月12日に殉教した。

1627年9月7日
福者トマス辻(司祭)
 1570年、大村近くの信徒の家庭に生まれ、有馬のイエズス会学校で学び、1589年に入会した。1608年に叙階された。説教家として名声を挙げたが、長崎の役人を正面から批判したため、博多へ移動させられた。そこから禁教令の下4年間マカオで避難したが、1618年8月に帰国し、いろいろと変装して昼夜司牧活動を再開したが、幾度か女性関係があったため、1619年に退会させられた。彼の名誉に損を与えないため、激しい迫害の最中、不安やすさみの状態に陥ったという理由が挙げられた。間もなく再び入会したいと申し出て、6年間の試験期間を経て、1626年に新たに入会し、長崎で働いた。1626年7月21日、ミサ直後、彼も家主とその息子も捕縛された。すでに背教した親類に唆されても、信仰を捨てようとしなかった。獄中生活13ヶ月の末、9月7日、3人とも西坂に連れて行かれ、火あぶりの刑に処せられた。殉教の場の目撃者の証言によると、辻神父が地面に崩れ落ちた後、その胸から真っ赤な炎が5分間も燃え上がっていたという。

1628年12月25日
福者ミゲル中島三郎右衛門(ブラザー)
 1583年、肥後(熊本)で生まれ、11歳の時両親と共に洗礼を受けた。青年時代、貞潔の誓願をたて、信心深く、苦行の多い生活を送った。禁教令下でもミサに参加できるように、家を司祭たちの宿泊場に当てていた。1627年、ブラザーとしてイエズス会に受け入れられた。その年の8月、地元の奉行に連行されて、何の罪名もないのに1年間自宅に監禁された。火あぶりの処刑が行われる際、地元の人たちは薪を供出することになっていた。1628年9月3日、薪を集める役人がやってきたが、ブラザー中島は神の奉仕者を殺すことに加担できないと言ったので、逮捕され、島原の牢に入れられた。そこで裸にされ、こん棒で殴られた。効果がないので、水責めの拷問を受けた。水責めとは、水を無理やり飲ませた後、拷問者は体を踏んだりして水を放出させる拷問である。ついに12月25日、雲仙の熱湯をかけられる拷問に数時間耐えて、殉教の死を遂げた。

福者アントニオ石田(司祭)
 1570年に島原でカトリックに対して生まれた。1589年に入会し、1612年に叙階された。特に仏教の僧侶に対して、キリスト教を擁護した。叙階前にも、広島や四国で神父たちと一緒に働いた。1614の禁教令後も残留し、信徒でもない領主に保護されて中国地方で働き続けたが、1618年1月に投獄された。翌年の8月、新しい領主によって釈放され、長上から長崎に呼び戻された。1622年に鈴田の牢に、アントニオ・キウニその他(上記のスピノラの項を参照)の聴罪司祭として入ることができ、入会したという彼らの望みを長上に伝えた。10年間長崎近辺で働いたが、1629年11月14日、捕縛された。初めのうちは親切に扱、12月10日に大村の牢に移され、殉教を待つ他の修道者5名と共にそこでひっそりと2年の歳月を過ごした。ついに1631年12月、雲仙に移送された。33日間も硫黄の熱湯で拷問を受けたが、拷問の執行者たちさえ雲仙にいるのが耐えられなくなったので、長崎に戻された。そこで8ヶ月監禁されたが、彼らの武勇伝がわれたが町中に広まった。最後に、1632年9月3日、ひそかに西坂に連れられて、6名とも火あぶりの刑に処せられた。

 本日記念される205名の殉教者の中、イエズス会員のみを取り扱った。同じようにフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会にも、多くの英雄的な先輩たちがいた。また多くの伝道者や協力者の信徒がおり、その中には、自分の家に司祭を迎えたという理由で拷問にかけられても、背教しなかった者が多い。教会暦では、9月28日にはドミニコ会の聖トマス西と同志殉教者15名を記念し、7月1日には日本各地で殉教した188名の福者(5人以外はすべて聖職者ではない信徒)を記念している。さらに名も知れず、登録されていない何千人の殉教者がいただろうか。神のみがご存知である。

 [文献: J. Schreurs 『日本205福者殉教者、だれがだれであるか、福者録』カトリック淳心会、2001]

 
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