わかちあい   
フランシスコ・ガラテ 
9月11日
福者フランシスコ・ガラテ
修道者


 多くの会員にとってブラザー・フランシスコ・ガラテは、もっとよく知られている聖アルフォンソ・ロドリゲスのクローンのように見えるかもしれない。実際、ガラテは自らの守護者であり、模範だったロドリゲスと同様、働きながらいつも祈り、普段からロザリオを手にしていた。
 フランシスコ・ガラテは、1857年2月3日、聖イグナチオの生家だったロヨラのすぐ近くのバスク家に生まれた。平日はいつもロヨラの聖堂でミサに与り、会員から要理を学んだ。1868年イエズス会員はスペインから追放され、フランス南部で帰国を待っていた。1871年、フランシスコが14歳の時、数名の会員が帰国して、オルドゥニアで学校を開いた。そこでフランシスコは庶務的な仕事をして働いた。3年後、1874年1月16日、ブラザーとして入会した。
 スペインの会員が避難したフランス南部のポワイアンに修練院があり、そこでフランシスコは2年の修練後、さらに1年を過ごした。それからスペイン北西部のガリシア地方のラ・グアルディアの学校に病人係として配属された。事前に一切の準備をしなかったが、病人たちに心を配り、しばしば病気の生徒の枕元で寝ずの看病をした。次第に彼の健康を崩し、1888年3月、ビルバオのデウスト大学や修道院の受付で働くことになった。
 フランシスコはいつも親切で、忍耐そのものであり、さらに学生たちのいたずらや金を騙し取ろうとする「客」を見破る賢さもあったという。顔や名前を覚える才能も抜群だった。親しみやすく、訪問客が絶えなかった。すべての人に励ましの言葉や良いアドバイスを与えた。物乞いに来る人々にも心を配り、食べ物や着物を分け与えた。デウストでの41年間、毎日仕事に励み、祈りと苦行を捧げて、神と共に生きる生涯だった。帰天50年にちなんで、ペドロ・アルぺ総長は書いた。「私は化学のため、また時にはハイ・アライ(球技)を楽しむため、また霊的指導者に会うために大学に行ったが、その都度玄関でブラザー・ガラテに会った。… 彼は神の人であり、平凡な生活の中に生まれた聖者、清さとやさしさそのものであった。」
 72歳となり、健康が次第に衰え、1929年9月8日、腹痛を訴えたが、その日の務めを終えるまで、病室に足を運ばなかった。最後が近いと感じ、聖体拝領を願った。医者が呼ばれ、尿道峡窄を取り除く手術をしたが、翌日の9月9日、自発的に終油の秘跡を受け、朝の7時に静かに永眠した。医者によると、死因はおそらく前立腺の腫瘍であったという。
 1985年10月6日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。
 「ブラザー・ガラテは、主の呼びかけに応えて心の扉を開いて主を迎え入れ、主の招きに従って主と交わり、主の忠実な友となった。神から親しく受け入れられたように、彼はすべての人を迎え入れ、惜しみなく時間を費やし、心を配り、自分自身までも人々に与えた。」(P-H.コルベンバッハ総長、AR XIX [1985], 322)

 
  Login Administrator

 

 
  @copyright 2009 Japan SJ