わかちあい   
トマス・シットジャールと同志殉教者 
9月22日
 福者トマス・シットジャールと同志殉教者
(司祭7名、ブラザー4名)(スペイン内乱の殉教者)


[2001年3月11日、教皇ヨハネ・パウロ2世は、バレンシア大司教区の推薦を受け、1930年代のスペイン内戦の殉教者233名を福者の列に加えた。教皇が強調したように、この新しい福者は政治紛争やイデオロギーの主張のためではなく、純粋に信仰のみの理由で命を捧げた。この多くの殉教者の中に、1936年にバレンシアとガンディアで処刑されたイエズス会員11名が含まれている。]

トマス・シットジャール・フォルティアー神父(70歳)は、ガンディア共同体の院長であった。1932年、スペインの革命政府がイエズス会を不法団体とした際、ガンディアの修練者は他国へ避難したが、残った会員はガンディア市内のアパートに散在した。1936年7月に内乱が勃発するまで、慎重に司牧活動を続けた。
シットジャール神父と同居していたのは、ブラザー・ペドロ・ヘラベルト・アメル(49歳)だった。ブラザーは老齢のシットジャール神父の世話をした。7月25日の夜、突然、シットジャール神父は逮捕され、接収され刑務所になった学校に連行された。逮捕時にうまく時間を稼いだので、ブラザーが窓から逃げることができた。しかしその翌日、ブラザー・ヘラベルトと、コンスタンチノ・カルボネル・センペレ神父(70歳、ガンディア修練院の副院長)とブラザー・ラモン・グリマルトス・モンヨル(75歳、園丁)も連行された。
 監視がつけられたが、来訪する人から寝具や食物を受け取ることができた。8月中旬、政治的見解について尋問された時、シットジャール神父は、「神の党の党員です」と答えた。8月19日零時過ぎ、シットジャール神父は釈放するのでついてくるようにと言われたが、連れ出されて、別の2名とともに道端で心臓を狙って撃たれ、殺された。8月23日の真夜中、他の会員3名と別の10名も、バレンシアに移動する準備をするようにと言われたが、彼らも連れ出されて、射殺された。

 パブロ・ボリ・プイグ神父(72歳)は、1891年に入会する前に教区司祭であった。ガンディア修練院の副院長と財務担当を務めていたが、不法宣言以来、ある老人ホームの隣りに住んだ。そのホームに数名の老齢会員もいた。ボリ神父と同居したのは、ブラザー・ホセー・タラツ・コマポサダ(58歳、裁縫や医務担当)とブラザー・ビセンテ・サレス・ヘノベス(55歳、長年修練院の受付)であった。
内戦勃発時、ホーム付きの司祭がそこから出ることになったので、ボリ神父はその代行を務めた。8月24日、人民戦線側はホームを占領した。会員は身分を偽っていたが、9月28日、ブラザー・タラツが密告され、医務担当3名とともに処刑された。翌日、ボリ神父もブラザー・サレスも殺された。

 ダリーオ・エルナンデス・モラトー神父(56歳)も、1936年9月29日に処刑された。8年間もバレンシアの修道院院長を務めたので、町でよく知られていた。9月上旬まで市内各地に移り住み、身分証明書を偽造して、何とか信徒の世話をしていたが、ついに9月13日、逮捕され投獄された。
 ナルシソ・バステー・バステー神父(69歳)は、30年近くバレンシアのイエズス会修道院に住んでいたが、共同体が解散した時、狭いアパートに移った。そこでミサをたてることができたので、他の会員も時折参加した。彼は長い間労働者の権利取得を支援していたので、人民戦線は彼に好意を示した。8月17日、初めて逮捕された際、以前彼の恩を受けた尋問者は恩返しとして彼を釈放した。9月6日、再び逮捕され、今度は好意的でない人の手に落ちる危険があるので、外出しないように忠告を受けて、また釈放された。しかし10月15日、ついに人民戦線の兵士に捕らえられ、処刑された。
 アルフレド・シモン・コロミーナ神父(59歳)は、バレンシアの聖ヨセフ学院学院長であったので、宿を提供してくれる複数の家庭があった。数度逮捕されたが、恩人の影響や身代金のおかげで釈放された。11月下旬に逮捕され、29日に処刑された。
 フアン・バウティスタ・フェレレス・ボルーダ神父(75歳)は、イエズス会神学院で倫理神学と教会法の教授であり、著作によって名声を挙げていた。8月中旬、バルセロナで逮捕されたが、高齢と虚弱のため釈放された。安全通行券を受け取り、バレンシア近くの故郷に帰省するのが許されたが、そこに到着すると尋問され、宗教関係の私物を全部没収された。8月の末、他の何百名もの人とともにバレンシアで投獄されたが、間もなく医務室に入らなければならなかった。彼の周りの病人たちと仲良くなり、彼らの質問に答えたり、一緒にロザリオを唱えたりした。そのうち脳溢血で倒れたが、適切な医療は与えられなかった。同士の司祭一人は、何とか計らって聖体をひそかに授けた。その聖体拝領の数日後、12月29日、フェレレス神父は帰天した。
 以上の会員のほか、一人の信徒、ルイス・カンポス・ゴリスの名前もよく加えられる。彼はイエズス会学校の卒業生、コングレガチオ・マリアナの会員、全国カトリック・アクションの会長だった。

 この福者たちの中に「修道院院長や司牧司祭、医務担当者や電気技術師、大学の院長や教授、名声ある教会法の専門家、コングレガチオ・マリアナの指導司祭、最も貧しい人々や若い労働者たちに惜しみなく従事した会員もいた。自分の命が危険にさらされていることを承知し、隠れたり逃げたりすることもできたが、そのまま残ってミサをたてたり告解を聴いたりして兄弟姉妹を力づけた。… 『より貴重で重要な奉献』をし、血を流す苦しみを捧げながら永遠の王に従うことを選んだ。」(P-H.コルベンバッハ総長、AR XXII [2001], 780)

 
  Login Administrator

 

 
  @copyright 2009 Japan SJ