わかちあい   
フランシスコ・デ・ボルハ 
10月3日
聖フランシスコ・デ・ボルハ
司祭


 フランシスコ・デ・ボルハ(イタリア語で「ボルジャ」)は、1510年10月28日、バレンシア地方ガンディアで、ガンディア公の長男として生まれた。父方の曾祖父は教皇アレクサンデル6世、母方の曾祖父はカトリック王フェルナンドであった。いとこに当たるスペイン国王カルロス1世の宮廷に出入りした。1529年、皇后イサベラの第一の侍女、レオノラ・デ・カストロと結婚し、8人の子どもに恵まれた。1539年5月、皇后が急死し、遺体をグラナダまで運ぶ列に加わった。埋葬される前に遺体を目の当たりにした際、強い衝撃を受けた。美貌だった皇后の顔に腐敗が進んでいた。この時、彼はもはやこの世の主人には仕えないと誓ったという。以後、彼はこの日を人生の転換の日とした。
 カタロニア地方の総督(1539~1542年)を務めた後、1543年、父親の後を継ぎ、ガンディア公となった。その頃、アントニオ・アラオスとピエール・ファーヴルが会員として初めてスペインを訪れ、彼と霊的に親しく交わった。その結果、1545年、ガンディアでイエズス会学校を設立する基金を寄付した。この学校は、会員でない青年たちをもっぱら対象にする最初のイエズス会学校となった。
 1546年に妻に死に別れたのち、学校の院長アンドレス・オビエド神父から霊操の指導を受け、すべてを捨ててイエズス会に入会するという決断に至った。ボルハは、ガンディアからローマに赴くファーヴルに、自らの決断をイグナチオに知らせるように頼んだ。
 イグナチオはボルハの召命を大切にした。それは、彼の身分だけでなく、深い霊性に由来する。神のすばらしさに対する生きた信仰と同時に、自分の惨めさを認識する霊性であった。イグナチオは入会の許可を与えたが、この世の務めを整理し、子どもたちの結婚を見届けるまで、公にしないように指示した。ボルハは自らの称号を長男に譲り、神学を学び始めた。1548年2月1日、会員としての誓願をたて、1551年5月23日、司祭に叙階された。その後バスク地方のギプスコアで小教区の司祭として働いたが、1554年、スペインとポルトガル両管区長の上に立つ総長代理に任命された。
 1565年、イエズス会の3代目総長に選出された。総長としての主な関心事は、若い会員の養成だった。イエズス会の精神を忠実に受け継ぎ、祈りの時間を定め、さまざまな職務規定をまとめ、学校の設立や『学事規定』の初版に尽力した。また、宣教師をアジア、南米、また持続しなったが、フロリダにも送った。
 教皇ピオ5世は、ボルハをボネリ枢機卿に随行させて、トルコ軍に対抗するキリスト教徒の足並みをそろえるためにヨーロッパ各地を歴訪させた。しかしこの旅でボルハは体調を崩した。ローマに帰って二日後の1572年9月30日、旅の途中から患っていた肺炎で帰天した。
 1624年11月23日、教皇ウルバノ8世によって列福され、1671年4月12日、クレメンス10世によって列聖された。遺体はマドリッドのイエズス会の教会で安置されていたが、1931年、スペイン内乱の際教会と共に焼失してしまった。

 
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