わかちあい   
ヨハネ・ベイジム 
10月12日
福者ヨハネ・ベイジム
司祭


 ヤン(ヨハネ)ベイジム神父は、マダガスカルで見捨てられたハンセン病患者のために尽力したことで知られている。1850年5月15日、今のウクライナで5人兄弟の一番上として生まれた。中等教育をキエフで終了し、教区司祭になることを考えたが、父親からイエズス会を勧められ、1872年12月11日、父親に見送られてスタラ・ヴィエシュの修練院に入った。
 第一勉学期をスタラ・ヴイーシュで終え、中間期ではテルノポル(ウクライナ)で寮の舎監を務めながら音楽を教えた。神学をクラクフで学び、1881年6月26日、司祭に叙階された。またテルノポルの学校でフランス語とロシア語を教えたが、1887年、ヒロフの学校に配属されて教える一方、大きな病棟の担当者となった。優しく世話し、面白い話をして、生徒たちに慕われた。
 彼はすでに48歳であったが、若い中間期生の話を聞いて、ハンセン病患者のために働くことに魅力を感じ、総長に手紙を書いた。翌1898年、マダガスカルに派遣された。そこでは、数名のフランス人会員が2箇所のハンセン病施設で働いていた。彼は首都タナナリヴェ近郊の大きい方の施設に着任した。150名の患者がいたが、荒地同様の場所に見捨てられ、食料も不足し、医療もまったくなかった。彼はまず一緒に住むことにした。学校での病棟経験を生かし、患者たちの傷口を消毒し包帯した。彼らの小屋を修復し、食物、衣服、入浴用の水などを提供した。いつしか「ハンセン患者の父と母」と呼ばれるようになった。
 正規の病院が必要だとすぐに思い、行政の認可も得たが、資金がなかった。この計画をすべてチェンストホバの聖母の手に委ねて、ポーランド全国の宣教組織や雑誌に手紙を送り、ハンセン病の悲惨さや患者たちの悲惨な状況を訴えた。反応は驚くほどであり、病院を建設するための寄付が集まった。
 1901年、その病院をマラナに建てることにした。そこは以前からあった施設のひとつで、南部のフィアナランツオアに近く、水源に恵まれ、畑もできる土地であった。彼自身が病院の設計と工事監督に当たった。工事は1903年から始まった。間もなく、タナナリヴェからも患者が再びベイジム神父に身を寄せるために、長い山道を越えて来た。彼らは皆喜び迎えられた。建設中多くの困難が生じたので完成が遅れたが、ついに1911年8月15日、病院が開業し、チェンストホバの聖母に捧げられた。
 ベイジム神父は疲労や苦行で健康が衰え、患者から感染した菌で数カ月高熱を煩い、1912年10月2日、天に召された。彼と協力者の労苦のおかげで、マダガスカルのハンセン患者を世話する組織の堅固な基礎が作られていたのである。
 ヤン・ベイジムは2002年8月18日、クラクフで教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。
 「私たちのこのポーランドの先輩は信仰の模範を示す。それは、病気に加えて、疎外されるという苦しみを押し付けられた人々に仕えることによって、愛の国を実現させる信仰である。」(P-H.コルベンバッハ総長、AR XXII [2002], 872)

 
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