わかちあい   
ヨハネ・オーギルビ 
10月14日
聖ヨハネ・オーギルビ
司祭、殉教者


ヨハネ・オーギルビは、1579年、スコットランドのドラム・ナ・ケイスでカルヴァン派の貴族の家に生まれた。1592年、12歳の時、勉学のためにヨーロッパ大陸に送られた。わずか4年後、ルーヴァンにあったスコットランド人のための学院で学んでいた頃、コルネリウス・ヴァンデン・シュテーン(ア・ラピード)神父の指導を受けて、カトリックに改宗した。その後、ルーヴァンのイエズス会学校に入学したが、1598年に財政不足のためその学校は廃校となった。ヨハネはまず半年間、ラティスボンでスコットランド系のベネディクト会に留まったが、モラヴィア(現在のチェッコ東部)のイエズス会学院に移った。その時もこの学校がペストを逃れて移転する事態となったが、ヨハネはすでにイエズス会に入会することを決断していた。
1599年11月5日、オーストリア管区に入会し、モラヴィアの修練院に送られた。通常の勉学課程を経て、1610年、パリで司祭に叙階された。帰国するには危険が待ち受けていることを熟知していたが、長上に粘り強く懇願し、ついに1613年に祖国に帰った。祖国では、ある時は馬の売買人、ある時は復員軍人を装っていた。彼のあふれるユーモアや創造性が大いに役に立った。
最初のうち、エジンバラ周辺でのカトリック信徒たちのための司牧活動ははかどらなかった。熱心なカトリック信徒でさえ、あえて彼を家に迎えるのをはばかっていた。しかし、ついに1614年の春、三つの家庭で迎えられ、ミサをたて説教した。また獄中の信徒たちを力づけるためエジンバラの刑務所も訪ね回った。しかし、彼の活動は急に絶たれた。改宗しようという人たちの一人がオーギルビ神父を密告し、1614年10月14日、グラスゴーで逮捕された。
獄中5ヶ月間、絶え間ない尋問を受け、鞭打たれ、爪の下に針を刺され、9日間睡眠を許されないといった残酷な拷問にも負けず、宿を貸したり、ミサに参加したりした信徒たちの名前を決して明かさなかった。また、獄中の経験や尋問の記録を書き、ひそかに外へ持ち出してもらうことに成功した。
1615年3月10日、ついに反逆者として絞首刑に処せられた。処刑の主な理由は、霊的分野に関するローマ教皇の首位権を一貫して主張したということであった。彼曰く、「王の権限の範囲であれば、ひたすら服従する。誰かが国王の現世的権限を犯すならば、王のために私の血の最後の一滴まで流す。しかし、王が霊的権威を不正にも掌握した場合、服従できないし、服従してはならない。」
 1929年12月22、ピオ11世によって列福され、1976年10月17日、パウロ6世によって列聖された。
 「彼のとりなしによって、わが会が、『地上におけるキリストの代理者であるローマ教皇のもとで、主とその花嫁である教会だけに』仕え、今日の教会にとっても真の使徒的聖性の源となるように祈りたい。」 (アルペ総長、AR XVI [1976] 907)

 
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