わかちあい   
ジャン・ド・ブレブーフ、聖イザ-ク・ジョーグと同志殉教者 
10月19日
聖ジャン・ド・ブレブーフ、聖イザ-ク・ジョーグと同志殉教者
北米の殉教者:司祭6名、ブラザー1名、信徒協働者1名


 イエズス会の多くのフランス人宣教師が、北アメリカの厳しい状況の中で、おもにヒューロン族を対象に宣教活動に従事した。この中の8名が1642年と1649年の間、拷問を受けて殉教した。この8名は、1925年6月21日、教皇ピオ11世によって列福され、1930年6月29日、同じ教皇によって列聖された。
 この8名の殉教者について、殉教の順に話を進める。彼らの仕事と殉教に関する資料は実に莫大な量であり、73巻にも及ぶ手紙などから、気候、食生活、習慣や言語の厳しさを知ることができる。その困難の中で宣教師は、セント・ローレンス河や五大湖地方の先住民にカトリック信仰を伝えるために英雄的な活躍をした。「この人々の中で私たちが求めるのは、ただイエス・キリストのみであり、またその十字架である。」(J.ド・ブレブーフ、1635年)
ヒューロン族に対するイエズス会の宣教活動は、わずか20年で終わってしまった。しかし殉教者たちは、神のみ言葉を伝えるだけではなく、自らの血を流すことによって、信仰の種を北アメリカの地に蒔いた。

 最初の3名は、現在のニューヨーク州オリーズヴィルで、モーホーク族のトマホークによって殉教した。このため、合衆国のイエズス会では、イザーク・ジョーグを代表とし、8名とも「北アメリカの殉教者」と呼ばれている。
 他の5名は、ヒューロン族がイロコイ族によって襲われた際に殉教した。カナダの会員は殉教者の8名とも「カナダの殉教者」と言う。またローマ典礼の一般暦では、ジャン・ド・ブレブーフの名を代表として挙げている。

 ルネ・グピールは1642年9月29日、北アメリカで最初に殉教した。彼は1608年5月13日、フランスのサンサンフォリアンで生まれた。外科医として成功したが、1639年3月26日、仕事を犠牲にしてイエズス会に入った。しかし、数ヶ月後難聴となり、退会を余儀なくされた。それから「ドネー」と呼ばれる信徒協働者として、自らをイエズス会に捧げた。宣教師とともに働いた信徒協働者たちは、長上への従順、無報酬、独身生活という三つの約束をした。グピールはヒューロンのミッションの協働者として受け入れられた。1640年、ヌーベル・フランスに着くと直ちにケベックの病院に配置されたが、原住民にもっと直接に働きかけることを願っていた。
 良い機会が訪れた。1642年にヒューロン族の間で働く人を募るために、イザーク・ジョーグ神父がケベックまでやってきた。グピールは、医療に通じていて最適な人物だった。しかし8月2日、セント・ローレンス河を遡っていく途中、ジョーグ、グピール、そしてヒューロン族の案内人数名は、突如反フランスのモーホーク族70名の待ち伏せに遭った。彼らは宣教師たちを袋叩きにした上、爪を剥ぎ取り、指を切り落とし、噛み砕いた。モーホーク川の流域を連行されていく途中、グピールはブラザーとしてイエズス会に受け入れられることをジョーグ神父に願い出て、その場で会員としての誓願をたてた。オセルネノンという村(今のオーリズヴィル)に着くと、迫害者が二列にならぶ間を裸で走らされ、走っている間、鞭打たれるという苛酷な拷問にかけられた。更に重労働。グピールは子どもに十字架を切るしぐさを教えたので、その子の叔父は激怒し、トマホークでグピールの頭を割って殺した。 

 イザーク・ジョーグは、1607年1月10日、フランスのオルレアンで生まれ、1636年1月に叙階された。同年の7月2日、シャルル・ガルニエー神父とともにヌーベル・フランスに着いた。ヒューロンのミッションに派遣され、トロワリヴィエールに進み、毛皮の交易に来るヒューロン族のカヌーを待った。そのカヌーに乗ってさらに1200キロ奥のヒュロニア(現在、カナダのオンタリオ州)に連れて行ってもらった。そこでジョーグは心から尊敬していたジャン・ド・ブレブーフ神父に会った。ジョーグの名前を発音することが難しいヒューロンの人たちは、「オンデソンク」(猛禽)というあだ名を付けた。ジョーグは6年間宣教したが、あまり成果を挙げなかった。そして先に述べた待ち伏せに出遭った。
 グピールが殉教して1年経た後も、ジョーグはまだ奴隷状態を強いられていた。モーホーク族の貿易団に加えられて、オランダ人のフォート・オランジュ(現在のオルバニー)まで行った。そこでオランダ人の家に6週間隠れて、モーホークの手を逃れた。オランダ人も彼を英雄と認め、ハドソン川を下ってニューアムステルダム(現在のニューヨーク)まで連れて行き、無償でヨーロッパに帰した。フランスの会員は、キリストの受難にあずかった英雄として彼を温かく迎えた。教皇ウルバノ8世は、損傷した手でもミサをたてる特別許可をジョーグに与えるにあたり、心に残るコメントを加えた。「キリストの受難にあずかった人 (martyr) が、キリストの御血を拝領できないとは理に合わない。」
 1644年5月、ジョーグは再びヌーベル・フランスに向かった。着いてからフランスとイロコイ連合との間の和睦交渉に尽力した。2年後の1646年、モーホーク族の承諾を確保するために、フランス使節の役を務めた。かつての捕虜が使節の服を身にまとっているのを見たモーホークたちは驚いたに違いない。ジョーグはケベックに戻り、再びモーホークのところでは宣教師として迎えてくれるだろうと思い、途中のトロワリヴィエールまで行って好機を待つ許可を得た。その年の9月、ヒューロン族の数人が和睦を固めるために、モーホークのオセルネノンまで案内して欲しいとジョーグに頼みに来た。この時も、ジョーグに信徒協働者が同行した。

 ジャン・ド・ラランドは、フランスのディエップに生まれ、いつ渡ったかは不明であるが、1642年以前に開拓者としてヌーベル・フランスに渡り、そこでイエズス会の協働者として身を捧げた。1646年、たとえ殉教することになっても、ジョーグ神父に同行したいと申し出た。旅の途中、モーホーク族がまた戦いを挑んでいると聞き、一人を残してヒューロンたちは、トロワリヴィエールに戻った。10月17日、オセルネノンの手前で、ジョーグと仲間たちはモーホークに襲われた。多少好意的な部族に預けられたジョーグは、翌日首長のロッジで催される宴に招かれたが、入り口から入った途端トマホークで倒され、遺体は村中引きずられた。ラランドはこれを聞き、暗いうちに遺体を確保しようとして外へ出たが、すぐに彼もトマホークで倒された。1646年10月19日の未明のことである。二人の遺体から首が切り落とされた。遺体は川に投げ捨てられ、首は村の周りの柵にさらされた。
 ジャン・ド・ラランドは会員として誓願をたてなかったが、イエズス会ボランティアや協働者の模範であることは確かである。

アントワン・ダニエルは、1601年5月27日、フランスのディエップで生まれた。法律学を学んでいた頃イエズス会を志願し、1621年10月1日、入会した。ルーアンで教鞭を執っていた時ヒューロン族の若い留学生に出会い、ヒューロン族のためのミッションで働くという希望を抱き始めた。1631年にパリで叙階され、ウーの学校で教えることになった。イングランドに負けたヌーベル・フランスから避難してきたド・ブレブーフ神父にそこで会った。
1632年の春、ダニエル神父は海を渡り、ケープブレトン島の植民者にしばらく奉仕し、ヒュロニアに赴く準備としてケベックに移った。ヌーベル・フランスに戻っていたブレブーフから言葉を学び、1634年7月7日、彼とともにヒュロニアに出発した。ダニエルは子どもと交わることが上手だったので、ヒューロンの青年のためにケベックで開く学校の責任者に任命された。1636年、わずか5名の青年を迎えてこの学校は開校したが、1638年に廃校となった。ダニエルはヒュロニアに戻り、10年間3つの村の宣教に専念して実りをもたらしたが、1648年7月4日、イロコイ族に襲われた。ダニエルは教会の中に避難したヒューロンの人々を守ろうとして入り口に立ちはだかり、矢と銃弾を胸に受けて倒れた。侵略者は遺体を辱め、燃え上がる教会の中に投げ捨てた。

 ジャン・ド・ブレブーフは、1593年3月25日、ノルマンディ地方に生まれ、大学を卒業後、1617年11月8日、入会した。1622年2月16日、叙階され、ルーアンのイエズス会学校の財務担当に任命された。1624年、11年前からヒューロン族の宣教に従事していたフランシスコ会改革派の宣教師は他の修道会の援助を願った。この依頼に応じた最初のイエズス会5名のグループに、ブレブーフも入っていた。1625年4月24日、ディエップを出港した。
 ヒューロン族が毎年の交易に来るのを待つ冬の間、ブレブーフは先住民を伴って狩猟に出かけた。彼らと同じ物を食べたり、同じように硬い地面に寝起きしたりする生活を学んだ。もっとも、宣教師の目には、彼らは迷信深く、不誠実で、残酷な性格と映った。1626年の春、ヒューロン族がついに来た時、ブレブーフが大きいのでカヌーに乗せようとしなかったが、金を払って乗せてもらった。水路がなくなり、カヌーや重たい荷物を運ぶ時、彼らはブレブーフのありがたさが分かり、「エチョン」(荷を運ぶ男)というあだ名を付けた。
 最初の2年間、ブレブーフはヒューロンの言語や習慣を学ぶことに専念した。宣教活動はあまり進展しなかった。また、イングランドとフランスが戦争しており、イングランド艦隊がセント・ローレンスの河口を封鎖したので、ケベックに食料などが入ってこなくなった。ブレブーフはこれを聞き、1629年7月17日、ヒュロニアから20隻のカヌーに穀物を満載してケベックに届けたが、2日後フランス軍がイングランドに屈服したので、フランス人は皆本国に帰された。ブレブーフはルーアンの学校の指導司祭に任命された。1631年にウーの学校の財務担当に転職し、アントワン・ダニエル神父と出会った。
 1632年3月の条約によってヌーベル・フランスが再びフランス領となった。ブレブーフも再びヌーベル・フランスへの派遣を受け、1633年5月23日、任地に到着した。間もなくダニエル神父も加わり、1635年に二人で宣教活動に尽力した。子どもには祈りや歌を教え、大人には学びに来るように誘った。しかし、1年の間12名の洗礼しかなく、しかも臨終間近の人ばかりだった。
 ガルニエー神父が1636年8月に、ジョーグ神父は9月に到着した。疫病などが起こると、神父たちのせいにされたりしたので、殉教の可能性がいつもあった。ブレブーフはサントマリーで新拠点を開いたが、他の部族と共謀しヒューロン族を裏切ろうとしているというデマが飛び交ったので、1641年6月、いったんケベックに退き、そこでヒュロニアに残っている14名の会員と19名の信徒協力者のために生活必需品を入手した。1644年8月までアルゴンキン族の保護統治地区で働いたが、ヒューロン族の交易団が来た時、その岐路で合流した。この時は、ノエル・シャバネル神父も一緒だった。

 ガブリエル・ラルマンは、1648年9月に新任宣教師として到着した。1610年10月10日、パリで生まれた。叔父のシャルル・ラルマンはすでにヌーベル・フランスの宣教師であり、他の叔父、ジェロームは後に宣教地の長上となった。1632年3月25日、ガブリエルは入会した。宣教地への派遣を志願したが、特に健康が優れないため、学校の教師としてフランスに残った。1646年にようやく許可を受け、9月20日、ケベックに上陸した。最初の2年間、言語や習慣を学び、1648年8月、サントマリーに出かけた。
 わずか6ヶ月後の1649年3月15日、ブレブーフとラルマンが毎週行っている定期巡回でサンルイという村にいた時、イロコイ族の襲撃にあった。二人の宣教師を捕虜にし、爪や指を噛み砕き、風雪の中を裸で走らせ、鞭で打ち、棒に縛るなどの拷問にかけた。ブレブーフは、一緒に捕らえられた信徒たちに天国の報いを期待するように励ました。侵入者は真っ赤に焼いた手斧を紐でつなぎ、首輪のように彼の肩にかけた。樹脂を含む木の皮を彼の体に巻いて、火をつけた。鼻や唇を切り落とし、洗礼の真似事として熱湯を頭の上から注いだ。彼が崩れ落ちた時、一人は頭皮をはぎ、もう一人は足先を切り落とし、また別の人はあごを手斧で打った。死後、心臓をえぐり出して、ブレブーフの屈しない勇敢さに与るために食べた。ヌーベル・フランスで20年間活躍した「ヒューロン族の使徒」は1649年3月16日午後4時ごろ、最期を遂げた。
 ラルマンへの拷問は、6時ごろ始まった。同じく、焼いた手斧の首輪をかけ、熱湯で「洗礼」を授けた後、手を切り落とし、眼をえぐり出し、その眼窩に燃え盛る石炭を詰めた。そして、次の日まで放置した。翌朝、燃え木を口に入れ、舌を切り落とし、頭皮をはぎ、心臓をえぐり出して食べた。ガブリエル・ラルマンは3月17日午前9時ごろ、帰天した。

 シャルル・ガルニエーは、1606年5月25日あるいは26日、パリの裕福な家庭に生まれた。1624年9月5日に入会し、1635年に叙階された。すぐにヌーベル・フランスの宣教地への派遣を望んだが、父親が反対して許可が下りなかった。1636年、2度目に願い出た時父親は譲歩し、ガルニエー神父は1636年4月8日、イザーク・ジョーグ神父と一緒にディエップを出港した。ケベックやトロワリヴィエールを経て、8月13日にヒュロニアに着いた。まず2年間ブレブーフから言葉を習い、その後10年間各地の村で活躍した。1648年7月にダニエルが殺害され、1649年、イロコイ族が再び攻撃的になってきたので、新しい同伴者だったノエル・シャバネル神父にサントマリーの拠点に帰るように指示した。その神父は、12月5日にヒュロニアを去った。7日の午後、イロコイ族は村を荒らした。ガルニエーは胸と腹に銃弾を受けて倒れた。しばらくして意識が戻った時、頭皮をはがれ、トマホークで打たれて最期を迎えた。

 ノエル・シャバネルは、この8名の最後の殉教者である。1613年2月2日、フランス南部で生まれ、1630年2月9日、トゥールーズで入会した。1641年に叙階され、トゥールーズのイエズス会学校で修辞学を教えた。1643年8月15日、ケベックに着いたが、イロコイ族がフランス人と戦っていたので、1年間ケベックでブレブーフから言葉を学んだ。ついに1644年8月、ブレブーフと共にヒュロニアのサントマリーに向かうことができた。シャバネルにとって、喉音の多いヒューロンの言葉と彼らの暮らしぶりが汚らわしいと思われ、強い嫌悪感を抱いていた。長上から帰国してもよいと言われたが、他の所へ移りたいという気持ちに逆らって残り、さらに1647年6月20日、「このヒューロンのミッションにいつまでも残る」という誓いをたてた。ブレブーフと共に、各地を巡回した。1649年の秋、ガルニエー神父の所に送られた。先に述べたように、ガルニエーが殺害されたイロコイによる攻撃の少し前に、サントマリーの拠点に帰された。途中の川をカヌーで渡る際、棄教者によって持ち物を奪われ、トマホークで殺され、遺体は川に捨てられた。1649年12月8日だった。2年後の記録には、殺害者自身が宣教師たちやその信仰に対する憎しみのために殺したことを自慢したとある。

 「ブレブーフ神父は、使徒的活動の中でも神と親しく交わり、天からの光に照らされ、神が訪れる恵みを受けた。『私の心は神のみに安らぎ、神以外のすべては、神のためでなければ私にとって無意味だ』という彼の言葉がある。ジョーグ神父は内気な性格であったが、絶えざる祈りによって、性格の弱さに打ち勝ち、拷問にひるまずに耐え、慰めも全くない中で長期間奴隷扱いの苦悩を耐え抜いた。その時代の資料が物語るように、他の殉教者も内的生活をつねに深める人、神と親しく交わる祈りの人であった。」(W.レドホフスキー総長、AR V [1925], 304)

 
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