わかちあい   
スタニスラオ・コストカ 
11月13日
聖スタニスラオ・コストカ、修練者

 スタニスラオ・コストカは、1550年10月28日にポーランドのロストコフで貴族の家に生まれた。1564年、14歳の時、兄パウロや家庭教師、二人の召使いと共にウイーンに移り、イエズス会系の学校で古典文学を学んだ。最初の8ヶ月間、学院の宿舎で充実した生活を送ったが、翌年3月宿舎が閉鎖され、コストカ兄弟は熱狂的なルーテル派の家に下宿することになった。スタニスラオは相変わらず熱心に祈り苦行をしたので、気ままに暮らしていた兄には不愉快で、自分の生活態度を咎めるものだと思い、弟を口汚く罵り暴力をふるっていじめ始めた。1566年12月、スタニスラオは高熱で倒れ、聖体拝領を望んだが、プロテスタントの家主は拒否した。本人によると、コングレガチオ・マリアナの守護者、聖バルバラに祈ると、聖人が聖体を運んできてくれたと言う。同じ頃、聖母マリアが彼に現れ、イエズス会に入会するように勧めたと言う。オーストリア管区の管区長は、親の許可なしには、入会を許可できないと言った。父親は入会を決して許可しないと知っていたので、1567年8月10日にひそかにウィーンを去り、まずドイツのディリンゲンまで歩いて、ペトロ・カニジオ管区長に会った。その地のイエズス会学院に三週間滞在して、カニジオに見送られて、会員二人と一緒にローマに向かった。一行はアルプスを越え、10月25日にローマに着いた。ウィーンからずっと徒歩で、1500キロもの長い行程であった。
 スタニスラオはカニジオから総長フランシスコ・デ・ボルハ宛の紹介状を携えていた。ボルハはその年10月28日にスタニスラオを修練者として迎え入れた。一緒に修練した者には、後の総長クラウディオ・アクアヴィヴァとその甥、インドで殉教したロドルフォもいた。スタニスラオは、ローマで一年足らず過ごし、当時流行っていたマラリヤ熱に襲われ、1568年8月15日の未明、「ウィーンと同じように聖母が来た!」と言って、帰天した。惜しみない心と気高い聖性に優れていた。1602年と1604年の二通の小勅書の中で、教皇クレメンス8世は彼を「福者」と呼んだ。イエズス会初の福者である。1726年12月31日、アロイジオ・ゴンザガと共に教皇ベネディクト13世によって列聖された。
 兄のパウロは父親にローマまで行ってスタニスラオを連れて帰るように命じられていたが、すでに帰天していたのを知って回心し始め、列福調査で重要な証言をした。1607年、60歳の時、入会許可を得たが、入会する前、11月13日に亡くなった。その日を、教皇クレメンス11世は聖人の祝日と定めた。
 「聖スタニスラオは、あらゆる時代、特にわれわれの時代の若者のための若い使徒です。彼は不誠実に対して『反対する者』であり、人格的な自由を得るために戦い、『私はより大いなるもののために生まれた』と言ってこの世が満たすことができない理想に憧れる人でした。」(P.アルペ総長、AR XV [1969], 492)

 
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