わかちあい   
ヨセフ・ピニャテリ 
11月14日
聖ヨセフ・ピニャテリ、司祭

 ホセ(ヨセフ)ピニャテリは1737年12月27日、スペインのサラゴサに生まれた。父親はナポリの貴族であり、母親はスペイン人であった。若い時に両親を失い、サラゴサのイエズス会学校で学んでいた間、修道院に住むことが許された。1753年に入会し、1762年に司祭に叙階された。結核を患い病弱だったためか、サラゴサの学校の低学年を担当したが、同時に貧しい人々に教理を教え、病人や囚人、特に死刑囚を訪問した。
 ブルボン家の諸王国でイエズス会に反対する勢力が増し、イエズス会はポルトガルとフランスから追放された。また1767年4月3日早朝、スペインのカルロス3世の命によって、世界各地に広がるスペイン領土にいた5000人の会員も追放された。ヨセフは600名のカスティリア管区管区長代行に任命された。彼らが避難する途中で他の会員も合流し、やがてイタリアのフェラーラに辿り着いた。1773年教皇クレメンス14世の命によってイエズス会が解散させられた時ヨセフはボローニアに移り、そこから各地に散った会員との連絡を取り、将来の復興のために尽力した。
 女帝エカテリーナ2世の領土では解散の小勅書の発布が阻止され、イエズス会が存続していたので、教皇ピオ6世は他の国々の会員もロシアの会員と連合することを許可した。その中の3名の会員は、1793年にイタリアのパルマで修道院を設け、ヨセフは彼らとつながりを保った。1797年7月6日、60歳の時、ボローニアで会員としての誓願を更新し、散らされた仲間たちを助け、集めるよう活動を続けた。1799年にピオ6世はイタリアのコロルノで修練院設置を承認し、ヨセフを修練長に任命した。1803年、ヨセフはロシアの上級長上によってイタリアの管区長に任命され、翌年教皇ピオ7世からナポリとシチリアでイエズス会の復興の承認を受けた。その後一年のうちに人材も施設も急増した。1807年にヨセフはローマに移り、サルディニア島で会の復興を確保し、各地の学校を再開し、様々な使徒職を鼓舞し、新しい召命を育てた。しかし健康が衰え、1811年11月15日、ローマに亡くなった。残念ながら、3年後の1814年8月7日、ピオ7世がイエズス会を全面的に復興することを見ることができなかった。ヨセフはその優しさ、謙虚さ、そして慈しみ深さのため広く慕われた。また、常に神を信頼し、散らされた会員の心の一致を保ち続けるためのゆるぎない勇気を持っていた。
ヨセフ・ピニャテリは1933年5月21日、教皇ピオ11世によって列福され、1954年6月12日、教皇ピオ12世によって列聖された。
 「神の栄光のために今の苦しみに耐え、他のところでもいずれ起こり得る苦しみに同じ霊的力と忍耐で耐え忍べるように、復興後のこの最初の聖人にイエズス会を絶えず委ねよう。」(J-B.ヤンセンス総長、AR XII [1954], 697)

 
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