わかちあい   
ヨハネ・ベルクマンス 
11月26日
聖ヨハネ・ベルクマンス
神学生

 ヤン(ヨハネ)・ベルクマンスは、1599年3月13日、現在のベルギーのディーストという村に生まれた。9歳の時、司祭職を考えていた子供たちと小教区の司祭館に下宿して、地元の学校に通った。3年目の終りに、靴作りの父親は教育費を捻出できず、ヤンを退学させ、職業を身につけるように勧めた。家庭の事情を知ったディーストの修道女会の指導司祭が、自分の家で手伝ってもらう代わりに教育費を提供した。1612年にヤンはメッヘレン(仏語で「マリーン」)に移り、司教座聖堂祭式者の家で働くようになった。食事の給仕、使い走り、また大聖堂付属学校で彼のように学んでいた他の生徒の世話もした。多忙であったが、司祭職の準備ができるという喜びに満たされていた。
 イエズス会がメッヘレンで学校を開校した時、ヤンはそこに転校した。その時、イエズス会に入ることを決心した。入会すると家族を支援できないので、父親は困惑したが、許可した。ヤンは1616年9月24日、修練院に入った。同年12月1日に母親が亡くなり、父親はヤンに帰宅を求めたが、話し合いの結果は意外だった。父親は店をたたんで教区司祭になるための勉学を始め、1618年4月に司祭に叙階された。
 ヤンは初誓願後、哲学の勉学のためにアントウェルペンに赴いたが、翌月ローマ学院で学ぶように命じられた。ローマに発つ前、父親を訪ねようとメッヘレンに行ったが、そこで初めて数週間前に父親が亡くなったことを知った。
 3年の哲学勉学が高く評価され、1621年7月8日、ローマ学院で開催された公開討論で哲学の全分野にわたる質疑に応答する学生に選ばれた。これも高く評価され、また8月6日にギリシャ学院の討論会でもローマ学院の代表者となる依頼を受けた。ちょうどその頃健康を損なっていたので、2番目の討論会の翌日赤痢で倒れ、高熱を出した。生命に危険があると知った会員は、臨終の聖体を授けた。本人は終油の秘跡を申し出、また十字架とロザリオと会則の本を持って来て欲しいと頼んだ。「この三つは私の最高の宝物です。これを手にしながら喜んで死ぬことができます。」その二日後、8月13日に帰天した。
 ヤン・ベルクマンスの短い生涯には、とりわけ目立つこともなかった。平凡な生活の中に見出すことができる神のみ旨を知ろうとする熱望が、彼を並外れの聖性まで導いたのである。彼を知る人は皆、彼が神に自らのすべてを捧げ、人々を愛し、いつも明るくふるまっていたので、彼を愛していた。彼が聖人だったとローマの会員は確信して、その死の直後列聖のための資料を集め始めた。1865年5月9日、教皇ピオ10世によって列福され、1888年1月15日、レオ13世によって列聖された。
 「彼について私たちが感銘を受けるのは、すべての美徳に関して完璧であり、いつも神の恵みを全身で受け止め、その恵みに助けられて、すべての行動をそれ以上望むことができない完璧さでやり遂げたことである。」(ローマ学院の院長V.チェパリ神父)

 
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