わかちあい   
エドマンド・キャンピオン、ロベルト・サテルと同志殉教者 
12月1日
聖エドマンド・キャンピオン、聖ロベルト・サテルと同志殉教者
イングランドとウエールズの殉教者のうち、イエズス会司祭26名と
ブラザー2名(聖人10名と福者18名)が含まれている。


 本日記念されるのは、16世紀と17世紀のイングランドとウエールズにおいて、カトリック信仰告白のために殉教したイエズス会聖人10名である。1886年12月29日、教皇レオ13世によって列福され、1970年10月25日、他の30名の男女とともにパウロ6世によって列聖された。
 併せて、同時代のイエズス会福者18名も記念される。その内の3名は1886年12月29日、教皇レオ13世によって列福され、13名は1929年12月15日、ピオ11世に、また他の2名は1987年11月22日、ヨハネ・パウロ2世によって列福された。正式会員のほかに、入会が認められたが修練に入る前か初誓願の前に捕えられ、処刑された者も含む。
 この28人の殉教者はすべて、カトリック教会に対する忠誠のために尊敬されている。裏切りによって密告される危険に常に身をさらしながら、地下組織を作り、迫害される信徒たちのために熱心に尽した。

 歴史的に4つの時期に整理できる。
(1) エリザベス1世を国教主権者として認める誓願を求められてから
(2) ジェームズ1世即位後の火薬陰謀事件(1605年)が「発覚」してから
(3) チャールズ1世の治世中、清教徒が国会の多数を占めてから
(4) チャールズ2世の時、1678年に「教皇派陰謀事件」が問題になってから

歴史背景その1 エリザベス1世 (1558~1603年)
 メアリー女王の在位期間中(1553年~1558年)、短期間であったがカトリックが復興し、プロテスタントは迫害を受けた。エリザベス1世の統治下で、国王を国教会の至上統治者とする法律が作られ、下院議員と聖職者の全員などに至上権への宣誓が求められた。カトリックを離れず、宣誓を拒否した聖職者は投獄され、偽りの容疑で裁判にかけられ、追放処分、監禁、あるいは反逆者として処刑された。処刑される者は牢獄から馬が引くそりに乗せられて見せしめにされ、ロンドン中心部を通ってタイバーンの刑場まで引かれた。そこで民衆の前でまず縛り首にされ、まだ生きているうちに下ろされてから切り刻まれ、胴体から内臓が取り出され、最後は四つ裂きにされた。他の人々への見せしめでもあった。
 1570年に教皇ピオ5世が女王を破門し、女王に対する忠誠から臣民を解放すると宣言した。そのため、カトリックに対する迫害も厳しくなり、処刑数も増えた。また、1579年に教皇使節が軍を率いてアイルランドで起きた反乱に加わったことや、1588年にスペイン艦隊が攻めてきたことなど、スペインと教皇が共謀してイングランドをカトリックの領域に取り戻そうとする動きもあり、女王らは徹底したカトリック根絶政策をとるようになった。

1580年以前
 1580年にイエズス会員が初めてイングランドに派遣される以前は、数人の会員しかいなかった。2名はカトリックのために処刑された。
 福者 トマス・ウードハウスは入会許可を受けた教区司祭である。彼は、1535年に生まれ、メアリー女王の治世最後の年、1558年に叙階された。エリザベス1世の即位後、新たな反カトリック政策の下で、1561年5月14日、ミサをたてたために逮捕され、12年間獄中で過ごした。そこでも個人的にミサをたて、囚人に宣教することなどは看守によって禁じられなかった。「ローマと和解せよ」と記した紙を石に結んで、牢獄の窓から投げて通行人に訴えたりした。1572年にパリのイエズス会管区長に、入会許可を求める手紙を送った。許可が届いた頃、女王の特別顧問ウイリアム・セシルに働きかけ、女王が教皇の首位権を認めるように勧めた。この大胆な行動の結果、彼は反逆罪で裁判にかけられ、1573年6月19日、タイバーンで処刑された。エリザベス1世統治下の初めてのイエズス会殉教者となった。処刑される前に、牢獄の中で会員としての誓願を立てた可能性もある。
福者 ジョン・ネルソンも入会許可を受けた教区司祭である。彼は1535年ごろ、ヨーク近郊に生まれた。密偵が潜んでいる危険を恐れず、カトリックであることを隠さなかった。38歳の時、フランス北部のドゥエに新設されたイングリシュ・カレッジという名のイングランド系司祭養成の神学院に行き、司祭になるための勉学を始めた。後に、彼の二人の兄弟も続くことになる。1576年に叙階され、同年11月にイングランドに派遣され、ロンドンで活動したと思われる。翌1577年12月1日、逮捕された。以前にパリのイエズス会に申し込んだ入会許可を、逮捕の前後に受けた。処刑される前に誓願をたてた可能性がある。反逆罪で有罪となり、1578年2月3日、タイバーンで縛り首、そして打ち首になった。
トマス・パウンドというイエズス会のブラザーは、入会前に他の信徒と協力して、イングランドへのミッションを開始するようにイエズス会に大きく働きかけた。彼自身は、ザビエルのようにインドに渡ろうとしたが、1572年、出港する予定の夜逮捕された。彼のある友人が、メルクリアン総長にブラザーとしての誓願を認めるように頼み、おそらく1578年に立願した。キャンピオンの『弁明』の出版や配布に大きく貢献した。30年間、数箇所の牢獄で過ごし、1604年、ついに釈放され、修道生活の原理に基づいた日々を最期まで送った。

 1581~1582年
聖 エドマンド・キャンピオン(イエズス会司祭)は、1540年6月25日、ロンドンで生まれ、オクスフォード大学で学んだ後、教鞭を執った。有望な若い学者として女王や宮廷に大切にされ、1569年イングランド教会の助祭に叙階された。カトリックに改宗し、まずダブリンに避難した後、ドゥエに渡った。1573年、ローマでイエズス会に入会し、修練のためにオーストリアに送られた。1578年、プラハで叙階され、そこで修辞学を教えたが、1580年、ロバート・パーソンズ神父と共にイエズス会の新たな試みであるイングランドのミッションに送られた。彼は自らの著書、特に話題となった『弁明』を秘かに印刷した。このため、徹底した指名手配の対象となった。秘かにカトリック信徒への司牧活動を続けたが、1581年7月16日、密告され、ロンドン塔に投獄された。棄教を拒み、拷問を受け、裁判にかけられ、1581年の12月1日、タイバーンで処刑された。
 聖 アレクサンダー・ブライアント(司祭、修練者)は、1553年ごろサマセットで生まれた。オクスフォード大学で学んでいた頃、ロバート・パーソンズ神父の影響を受け、カトリックに改宗した。1577年、ドゥエに渡り、1578年に教区司祭に叙階された。翌年イギリスに戻り、サマセットで活躍したが、1581年にロンドンに行き、パーソンズ神父の家で逮捕された。一ヶ月間の拷問にもかかわらず、パーソンズ神父の行方を漏らすのを堅く拒否した。濡れ衣を着せられて、有罪の判決を受けた。獄中で入会を志願する手紙を書き、認められた。苦しみの内に、修練者として死を迎えた。キャンピオンと同日、1581年12月1日、タイバーンで処刑された。
 福者 トマス・コッタム(イエズス会司祭)は、1549年、ランカシャー州のプロテスタントの家に生まれた。学校の教師となり、1575年ごろ、インドにおけるイエズス会のミッションについてトマス・パウンドから聞き、カトリックに改宗した。1577年にドゥエに渡り、助祭の叙階を受け、さらにローマに赴き、1579年4月8日、インドのミッションに派遣されるのを願って、イエズス会に入会した。病気のため北方へ戻るように勧められ、ランスのイングリシュ・カレッジに入学した。1580年5月28日、ソワソンで叙階され、6月5日にイングランドへ向かったが、友人と思っていた人に裏切られ、ドーバーに上陸すると同時に逮捕された。1581年10月、ロンドン塔の中で苛酷な拷問にかけられ、11月16日にキャンピオンらと共に有罪とされ、6ヶ月後の1582年5月30日、タイバーンでの死刑が執行された。
   ロバート・パーソンズ神父は、悩みながらもヨーロッパ大陸に戻ることを選択した。結果的に、これは極めて有意義な選択となった。永年、大陸で教区司祭ウイリアム・アレン神父(後に枢機卿)と共に働き、数箇所で神学院(イングリシュ・カレッジ)を建設し、イングランドに送り込む司祭の養成に大きく貢献した。この司祭たちは、危険を承知で、帰国した。彼らの多くは、後にイエズス会を志願した。

 1594~1595年
 福者 ジョン・コルニリアス(入会許可を待っていた教区司祭)は、もとの名はジョン・コノル・オマホーニである。1557年、ボドミンに生まれた。両親はアイルランド人である。1578年、カトリックに傾き、オクスフォード大学から排斥され、まずランス、そしてローマのイングリシュ・カレッジで学び、1583年7月、教区司祭として叙階された。本国に送られて、10年間ドルセットとデヴォンで働いた。イエズス会を志願したところ、携わっている司牧から手を引くことができる時点で、フランドルに渡って修練をするようにとの指示を総長から受けた。代わりの司祭を見つけることができず、イングランドの長上であったヘンリー・ガーネットは、彼が本国で修練する許可を総長に頼んだ。しかしコルニリアス神父は密告され、1594年4月14日、逮捕され、投獄された。拷問を受けても、宿を貸した人や、ミサにあずかった人の名前を明かそうとしなかった。修練を始める許可がおりたか不明のまま、獄中、3名の証人の前でイエズス会員の誓願をたてた。死刑を宣告され、1594年7月4日、ドーチェスターで縛り首となり、さらに四つ裂きにされた。
 聖 ロバート・サテル(イエズス会司祭)は、イングランドの代表的な詩人の一人に数えられる。1561年、ノーフォークのカトリックの家庭に生まれた。若い時からドゥエ、そしてパリで学び、イエズス会を志願したが、17歳で若すぎると言われ、ローマに徒歩で赴き、1578年に入会が許可された。1584年に叙階され、ローマのイングリシュ・カレッジで学務主任に任命された。1586年、ヘンリー・ガーネット神父と共にイングランドのミッションに派遣され、6年間、特にロンドンを拠点として秘かに司牧や他の司祭たちの世話に尽した。上手に追跡者を逃れていたが、1592年6月についに密告された。獄中で2年半もの間、苛酷な拷問を受けた。司祭であるという理由で死刑の宣告を受け、1595年2月21日、タイバーンで処刑された。
 聖 ヘンリー・ウォルポール(イエズス会司祭)は、1558年、ノーフォークに生まれ、ノリッジやケンブリッジで学び、グレーズ・インという法学院で法律を学んだ。カトリックに対して熱心になったきっかけは、キャンピオンの殉教であった。キャンピオンが四つ裂きにされる際、ウォルポールはすぐ近くにいて、キャンピオンの散った血を一滴受けた。イエズス会に入るため、まずドゥエ、そしてローマで学び、1584年にローマで入会した。1588年、パリで叙階され、オランダ駐在のスペイン軍の従軍司祭として派遣された。そこでカルヴァン派に捕らえられ、一年間投獄された。その後、スペインのバヤドリッドのイングリシュ・カレッジの院長補佐になった。1593年、イングランドのミッションに派遣されたが、スパイに密告され、ヨークシャー州に上陸すると直ちに逮捕された。一年間も耐え難い拷問に耐え、1595年4月7日、ヨークで反逆者として縛り首などの死刑に処せられた。

1601~1602年
福者 ロジャー・フィルコック(入会許可を受けた教区司祭)は、1570年ごろケントに生まれた。まずランス、そしてバヤドリッドで学び、1597年に叙階された。イエズス会を志願したが、帰国して、イングランドでの長上ヘンリー・ガーネット神父のもとで志願期を過ごす指示を受けた。帰国途中でオランダ船に乗っ取られたが、無事に逃げてケントにたどり着き、司牧活動を始めた。ガーネット神父のもとで、2年間の志願期を送った。1600年、修練のためにフランドルに渡ろうとして、逮捕され、投獄された。1601年2月27日、バヤドリッドで仲間だった一人のベネディクト会員と共に、タイバーンまで引かれた。タイバーンに着くと、自分のところに告解に来ていた女性、(聖)アン・ラインの死刑が執行されたばかりであった。まず同志のベネディクト会員の四つ裂きまで見届け、自分も裸にされ、縛り首となった。
 福者 ロバート・ミドルトン(入会許可を待っていた教区司祭)は、1571年ごろヨークで生まれた。幾年かイングランド教会に所属して、家族代々のカトリックに戻った。ヨークで殉教した(聖)マーガレット・クリザローの影響を受けて、改宗したと思われる。20歳代半ば、まずランス、次いでセビリャ、そしてローマで、司祭になるために学び、1598年にローマで司祭となった。本国に戻り、2年以上もランカシャー州で活躍した。1599年、イエズス会入会の許可をガーネット神父に依頼した。ガーネットは総長に伝えたが、1600年9月、許可の手紙が届く前にすでに逮捕され、ロンドンに連行された。本人が手紙を入手したかどうかは、ガーネットも分らなかった。1601年、ミドルトンはランカシャー州に戻され、1601年4月3日、まず縛り首、次いで切り刻まれ、最後に斬首された。
 福者 フランシス・ページ(入会許可を待っていた教区司祭)は、フランドルのプロテスタントの家庭に生まれた(生年不明)。イングランドでカトリックの弁護士の事務所で働き、雇用主の娘に求婚した。改宗すれば結婚を許可すると言われて、ジョン・ジェラルド神父から教えを受けた。学んでいるうちに、司祭を志すようになり、婚約を解消した。1600年、ランスで叙階され、帰国し、ロンドンを中心に司牧活動に携わった。ある日、(聖)アン・ラインの家でミサをたてようとしていると、神父らを追及する人たちが家を捜査した。ページ神父は隠れたが、アン・ラインは逮捕され、司祭を家にかくまった罪で処刑された (上記の1601年2月27日参照)。ページはイエズス会を志願したが、許可を待っているうちに、密告されて、逮捕され、死刑の宣告を受けた。処刑の前夜、同じ牢にいた会員、ヘンリー・フロイド神父と最後の晩を過ごすことが許され、フロイド神父の面前で誓願文を書いた。1602年4月30日、タイバーンで処刑された。

歴史背景その2  ジェームズ1世 (1603~1625年)
イングランド王ジェームズ1世(スコットランドのジェムズ6世と同一人物)の在位中、エリザベス時代と同様、カトリックに対する迫害が続いた。これに拍車をかけたのは、主に策略家ロバート・セシルであった。父ウィリアムの後を継ぎ、エリザベスの時代から徹底した反カトリックの大臣であり、政治を大きく動かす力を持っていた。イエズス会員が関係したとされる1605年の火薬陰謀事件も、ロバート・セシルの陰謀だったかもしれない。通説によれば、ヘンリー・ガーネットらイエズス会員にそそのかされて、ガイ・フォークスら反国教会派のカトリックが、上院議事堂地下に仕掛けた火薬で議事堂を爆破しようとたくらんだという。
 ヘンリー・ガーネット神父は、1586年、ロバート・パーソンズ神父に見送られて、ローマからロバート・サテル神父とともにイングランドのミッションに派遣された。パーソンズはミッション全体の世話役をローマで務めたが、ガーネットは20年間、イングランドの長上として上手に会員の配属や霊的成長に配慮した。迫害が厳しくなると、拠点となる小共同体を各地に設置し、忠誠の精神や規律正しい生き方を促した。火薬陰謀事件をそそのかしたとされて、裁判にかけられた。事前に告解によってその陰謀を知っていたという自供に基づいて有罪とされ、1606年に死刑された。
 ジョン・ジェラルド神父は、自叙伝の中でこの時代を雄弁に物語っている。1588年に本国に戻る際、まだ修練者だった。常に現実を直視し、目標を定めて、危険を伴うチャレンジに巧みに立ち向かった。優れた霊的指導者でもあり、信仰告白をためらう信徒たちを励まし、勇気を与えた。イングランドに留まることを考えていたが、ガーネットが処刑されたその日に大陸に戻り、そこで数年間奉仕した。

 1606~1608年
聖 ニコラス・オーウェン(イエズス会のブラザー)の生年は不明だが、オクスフォードシャー州の大工の息子であり、彼自身も腕のたつ大工であり、指物師であった。1580年ごろブラザーとして入会したが、入会前から会員の協力者として、信頼されていた。キャンピオンの無実を堂々と主張したため、投獄された。釈放後、18年間ヘンリー・ガーネット神父とジョン・ジェラルド神父に仕えた。再度逮捕されたが、ロンドン塔から抜け出し、20年間も多くのイエズス会司祭の命を救った。各地の家に、発見されないように隠れ場を巧みに作った。幾度も逮捕されたが、素性が知られる隙を役人たちに与えず、いつも釈放された。やがてウースターで捉えられ(次の福者オールドコーンを参照)、ロンドン塔で過酷な拷問を執拗に受け、1606年3月2日、塔内で獄死した。政府関係者は、自害したという嘘を言い広めた。
 福者 エドワード・オールドコーン(イエズス会司祭)は、1561年、ヨークのカトリックの家庭に生まれた。医師を志したが、進路を変えて、まずランス、後にローマで学び、1587年に叙階された。1588年8月15日、ローマで入会した。同年11月、ジェラルド神父と共に本国に帰り、16年間ウースター近郊のヒンリップ・ホールを拠点とした。彼らの家が捜査を受け、会員は皆隠し部屋にこもった。オールドコーンとヘンリー・ガーネットは8日間の飢え渇きに耐えられず、外に出たところを逮捕され、ロンドン塔で拷問にかけられた。オールドコーンはウースターに戻され、火薬陰謀事件に関わったとする偽証に基づき有罪とされ、1606年4月7日、タイバーンで処刑された。
 福者 ラルフ・アシュリー(イエズス会のブラザー)の生誕や生い立ちは不明である。ランスのイングリシュ・カレッジでコックとして働いていた。1590年にバヤドリッドに新設されたカレッジに転勤し、ブラザーとして入会した。健康が優れず、1598年、本国に帰るように勧められた。しばらくヘンリー・ガーネット神父を手伝い、次いでヒンリップ・ホールにオールドコーン神父の補佐として派遣された。そこで8年間働いた。彼らがいる家が捜査を受け、ブラザー・アシュリーとブラザー・オーウェンは同じ隠し部屋にこもったが、4日後外に出て、逮捕された。さらに4日間捜査が続き、上記のようにオールドコーンとガーネットもついに逮捕された。しばらくの間ロンドン塔に投獄され、ウースターに戻され、オールドコーン神父の反逆行為の共犯者として、同じ1606年4月7日、オールドコーンに続いて処刑された。
聖 トマス・ガーネット(イエズス会司祭)は、1575年、サザークの熱心なカトリックの家庭に生まれた。17歳の時、司祭になるため、まず新設されたサントメールのイエズス会学校(後にストニーハーストに移転した学校)、次いでバヤドリッドの神学院で学んだ。1599年に教区司祭として叙階され、帰国した。イエズス会のミッションの責任者であったヘンリー・ガーネット神父は、彼の叔父にあたる。トマスは、ウォーウィックシャー州で6年間司牧に従事した。叔父やイエズス会殉教者に魅せられて入会を願い、1604年9月29日、入会が認められた。しかし修練のために大陸に渡る前に、火薬陰謀事件が起きた。この陰謀に関わったとされた人と同居していたため、彼も投獄された。翌年7月、危険性の大きいとされた司祭たちに場所を譲るように、危険性の低いと思われた司祭たちは追放され、トマス・ガーネットはフランドルに追放された。1607年2月、ルーヴァンで新設された修練院に入り、以前の投獄期間も修練期に加算されて、わずか5ヶ月後に初誓願を立てることが許された。間もなく本国に戻ったが、やがて密告され、逮捕された。数ヶ月尋問や拷問を受け、1608年6月23日、タイバーンで処刑された。通常と異なり、完全に息を引き取った後、遺体が下ろされた。

歴史背景その3  チャールズ1世 (1625~1649年)
ジェームズ1世は、1622年に、投獄されている司祭たちを全部釈放するように命じた。その後を継いだチャールズ1世の在位中、大きな困難を受けないで司牧活動が行われた。それはおもに、チャールズの王妃、フランス人のヘンリエッタ・マライヤが熱心なカトリック信徒であったためである。司祭に対する刑法はまだ有効であったが、密告者の請求がない限り、実施されなかった。しかし、在位の初期、イエズス会の神父一名が殉教し、また1640年代にピューリタンが強い「長期議会」のもとで迫害も再発した。やがてピューリタン革命が起こり、内乱の末、1649年、王は処刑された。

1628年
 聖 エドマンド・アロウスミス(イエズス会司祭)は、1585年、ヘイドックの熱心なカトリックの家庭に生まれた。洗礼名はブライアンであったが、1605年にフランスのドゥエに留学し、叔父にあたるドゥエの司祭に因んで、常に堅信名のエドマンドと名乗った。1612年に教区司祭に叙階され、翌年本国に送られ、10年間ランカシャー州で信徒の司牧に従事した。1622年に投獄されたが、ジェームズ1世の司祭釈放令によって間もなく釈放された。1623年にイエズス会に入会し、国内で修練期を過ごした。1628年、近親婚のため譴責した青年から告発され、再び逮捕された。同1628年の8月28日、ランカスタター郊外で処刑された。斬首や四つ裂きは、息を引き取った後に行われた。

 1642~1651年
 福者 トマス・ホランド(イエズス会司祭)は、1600年、ランカシャー州に生まれた。6年間サントメール学院で過ごし、1621年にバヤドリッドの神学院に入り、1624年にフランドルのワッテンにある修練院に入った。司祭叙階後サントメールの霊的指導者を務め、ヘントにもしばらく滞在し、1635年に健康上の理由で帰国させられた。しかし、昼間は外出できず、夜間司牧活動にたずさわったので、健康はかえって悪化した。フランス語、フラマン語、スペイン語に通じ、偽名や変装の工夫も上手だったので、7年間働くことができた。ついに、1642年10月4日、司祭の容疑で逮捕された。12月7日の裁判中、司祭ではないと誓うことを拒否したので、死刑を宣告された。1642年12月12日、処刑される直前に、チャールズ王のために祈った。実は、このチャールズが王子時代の1623年に、スペインの王女マリアに求婚するために訪れた時、留学していたトマス・ホランドは歓迎会でラテン語の祝辞を述べ王子を称えたこともあったのである。
 福者 ラルフ・コルビー(別名、コルビントン)(イエズス会司祭)は、1598年、カトリックに改宗したためアイルランドに避難した家庭に生まれた。1603年にダラムに戻ったが、1613年以降サントメールで学んだ。1619年にセビリャの神学院に入り、1621年にバヤドリッドに転校した。1625年に叙階され、同年ワッテンで入会した。1632年にイングランドのミッションに派遣され、12年間ダラム州で働いた。1644年7月8日、ミサの最中に逮捕され、1644年9月7日、タイバーンで処刑された。彼の二人の兄弟もイエズス会司祭に、父親もイエズス会のブラザーに、母親と二人の姉妹もベネディクト会の修道女になった。
 聖 ヘンリー・モース(イエズス会司祭)は、1595年、サフォックのプロテスタントの家庭に生まれたが、1614年にドゥエでカトリックに改宗した。ドゥエの神学院に入る準備のため本国に戻ったが、上陸した時に王を国教会首長と承認する誓いを拒否したため、4年間投獄された。1618年に多くの非国教徒と共に釈放され、ローマで神学を学び、1623年に叙階された。帰国後イエズス会に入会することになり、1624年に本国で入会し、ニューキャッスル近郊で働いた。1626年4月に修練をワッテンで終えるために乗船した際逮捕され、投獄された。彼の後任になるはずだったイエズス会司祭も共に投獄されたので、彼のもとで30日の黙想をして、修練を終えた。1630年にフランドルに追放され、従軍司祭として働いた。1633年に再びイングランドに派遣され、ロンドンの街頭でペストにかかった病人を世話した。1638年2月にまた逮捕され、有罪であったが、宣告されなかった。王妃の介入で、ぺスト犠牲者に献身したことが評価され、釈放されたのである。しかし、ロンドンで活動することができなかったので、またフランドルに渡り、従軍司祭を務めた。1643年にまた本国に送られたが、2年も経たないうちにまた捕らえられ、追放刑に違反して帰国したという罪で1645年2月1日、タイバーンで処刑された。
 福者 ピーター・ライト(イエズス会司祭)は、1603年、ノーサンプトンシャー州の貧しい家庭に生まれた。父親が死に、ピーターは弁護士事務所で働き始めた。周囲のプロテスタントと度重なる議論の末、自らのカトリック信仰が揺らいだ。事務所で10年働いた後、軍隊に入隊したが、すぐに退職した。フランスのリエージュにいたイングランド出身のイエズス会員の指導でカトリックに復帰した。1629年にワッテンの修練院に入り、1639年にリエージュで叙階された。本国への派遣を希望したが、まずサントメールに、次いでフランドル駐在のイングランド軍の従軍司祭に配属された。熱心なカトリック信徒であったヘンリー・ゲージ大佐の連隊と共に、1644年、内乱の本国に戻った。1651年2月2日、ミサの直前に逮捕され、1651年5月19日、タイバーンで処刑された。

歴史背景その4 共和制とチャールズ2世 (1660~1685年)
共和制(空位期間ともいう1649~1660年)とチャールズ2世の即位後しばらくは、宗派について寛容な時代だったが、1678年、事態は急速に変化した。それはタイタス・オウツが捏造した「教皇派陰謀事件」である。この架空の陰謀とは、イエズス会の陰謀によってカトリック教徒がチャールズ王を暗殺し、カトリックであるヨーク公ジェームズ(のちジェームズ2世)の即位を早めて、カトリックの復活を企んでいたということだった。
 タイタス・オウツは、国教会で聖職を奪われ、カトリックへの改宗をよそおい、バヤドリッドのイエズス会学院に入ったが、1677年10月に退学させられ、サントメールに転学した。そこで1678年6月にトマス・ウィットブレッド管区長に会い、入会を願った。ウィットブレッド神父は、オウツの過去を知っていたので入会を拒否し、さらに同性愛の行為のため退学処分にした。オウツはその後復讐心に駆られ、例の陰謀を捏造した。王はこの陰謀について相手にしなかったが、オウツの告発に、もともと反カトリックの議会と世論は動かされ、無実のカトリック教徒の逮捕、投獄、処刑へと続いた。

 1678~1679年
福者 ウィリアム・アイルランド(イエズス会司祭)は、1636年、リンカーンシャー州に生まれ、サントメールで学んだ。1655年にワッテンの修練院に入り、1667年にリエージュで叙階された。10年間サントメールで教え、クララ会修道院の聴罪司祭を務めた。1677年6月、イングランドのミッションの財政担当者に任命され、「アイロンモンガー」という偽名を使ってロンドン地区で働いた。1678年9月28日、ジョン・フェンウィック神父と信徒協働者1名と共に教皇派陰謀事件との関連で逮捕され、3ヶ月間投獄された。12月17日、ウィットブレッド神父とベネディクト会修道士と共に裁判にかけられた。チャールズ王はイエズス会による陰謀などはないと考えたので、アイルランド神父の処刑に承諾しなかったが、民衆の怒りを恐れ、ついに1679年1月24日、死刑執行を許した。
 福者 ジョン・フェンウィック(家族名はコルドウェル)(イエズス会司祭)は、1628年、ダラムのプロテスタントの家庭に生まれた。カトリックに改宗した際、家族から勘当された。1654年頃サントメールに渡り、1656年にワッテンで入会した。リエージュで学び、1664年に叙階された。サントメールの財務担当者となり、1673年ごろロンドンに送られ、同じく財務担当の仕事を続けた。陰謀事件で、アイルランド神父と共に逮捕されたが、裁判中の証言がオウツの証言と整合せず、牢に帰された。アイランド神父の処刑の後、フェンウィックは以下の4名と共に再び裁判を受け、処刑された。
 福者 トマス・ウィットブレッド(イエズス会司祭)は、1618年、エセックス州で生まれ、1630年頃サントメールに渡った。1635年にワッテンで入会し、1645年に叙階された。1647年に本国に戻り、「ハーコート」という偽名で、30年もの間働き、成果をあげた。サフォーク州やランカシャー州で地区長を務め、1678年、管区長に任命された。ヨーロッパ大陸のイングリシュ・カレッジを歴訪していた際、上記のように、サントメールでタイタス・オウツに会った。ウィットブレッド神父の逮捕は、アイルランド、フェンウィック両神父が捕らえられた翌日9月29日の朝だった。その時重病であったため、他の囚人に合流したのは、12月半ばであった。
 1679年の前半、さらに3名の会員が逮捕された。
 福者 ジョン・ガヴァン(イエズス会司祭)は、1640年、ロンドンに生まれ、サントメールで学び、1660年にワッテンで入会した。哲学をリエージュで、神学をローマで学び、1670年にローマで叙階され、翌年帰国した。8年間スタッフォードシャー州で働き、多くの改宗者を出したので、彼の拠点は「リトル・ローマ」と呼ばれた。1月23日に逮捕された。
 福者 ウィリアム・ハーコート(本名バロー、別名ウエーリング)(イエズス会司祭)は、1610年ごろランカシャー州で生まれ、サントメールで学び、1632年にワッテンで入会し、1641年に叙階された。1644年に帰国し、35年間ロンドンを中心に活躍した。管区の財務担当、またロンドン地区長を務めた。教皇派陰謀事件の騒動の中で会員全員が容疑者とされたので、ハーコートは皆に大陸に避難するように勧めた。彼自身は残り、様々な変装を工夫し、毎日のように居所を変えた。しかし、ついにある女中に密告され、5月7日に逮捕された。
 福者 アントニー・ターナー(イエズス会司祭)は、1628年、レスターシャー州のプロテスタント牧師の家庭に生まれたが、母親の模範に感化され、彼も弟エドワードもケンブリッジ大学在学中に、カトリックに改宗した。二人ともローマのイングリシュ・カレッジに入学した。アントニーは1653年にイエズス会に入会し、1659年に叙階され、1661年に帰国し、18年間ウスターシャー州で活躍した。エドワードも1657年に入会したが、1681年に獄中死を遂げた。陰謀騒動の中、他の会員と投獄生活を共にしようとしたが、外国に避難するように指示された。渡航費が足りず、1679年1月、イエズス会司祭として出頭した。
 6月13日の裁判でガヴァン神父は代弁者として告発に答えたが、偽証の方が認められ、5人共反逆罪で有罪となった。1679年6月20日、タイバーンで絞首刑を受けた。その直後、四つ裂きにされたが、信徒による埋葬が許された。
 聖 フィリップ・エヴァンズ(イエズス会司祭)は、1645年、モンモスシャー州(現在、ウエールズのグウエント州)に生まれ、サントメールで学び、1665年に入会した。1675年に叙階され、ウエールズ南部で4年間働いた。教皇派陰謀事件に関わったとされ、指名手配を受けても逃亡せず、逮捕されるまで自らの派遣先で信徒の世話をし続けた。裁判では極刑を宣告された。翌日処刑されるという知らせを受けた時、テニスをやっていた。喜びに満たされ、最後までゲームを続けた。1679年6月22日、カーディフ郊外で絞首刑を受けた。
 聖 デヴィッド・ルーイス(イエズス会司祭)は、1616年、モンモスシャー州でプロテスタントの家庭に生まれ、19歳の時、パリで働いている時、カトリックに改宗した。ローマの神学院に入り、1642年に叙階された。1645年、イエズス会に入会し、しばらく神学院の霊的指導を務め、ウエールズのミッションに派遣された。31年もの間ウエールズ南部のクームを拠点に活躍した。周囲の人々の生活を助け、「貧しい人の父」として尊敬された。教皇派陰謀事件の騒動が起こった後も、密かに活動を続けたが、1678年11月に密告され、死刑の宣告を受けた。1679年8月27日、モンモスシャー州のウスクで絞首刑を受けた。100年も続いた長いイエズス会殉教史の最後の犠牲者であった。

 「私たちのこの兄弟は皆、キリストとその福音に対して揺るがない忠誠を尽くして、死を耐え忍び、良心の自由のために殉教した。…キリストと信仰のために苦しむ人々に勇気を与える模範である。また、キリスト者一致を目指すエキュメニスムの分野に、誠実な心や善意をもって従事する人々の励ましともなる。」(アルペ総長、AR XV [1970] 624~625)

 
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