わかちあい   
第2 教令 
第2 教令
他の火をも燃え上がらせる火
イエズス会のカリスマの再発見
多くの火花が一つの炎に、多くの物語が一つの歴史に


1.  イエズス会は、およそ500年前から、一つの炎を燃え上がらせてきた。その間、多くの社会的文化的に困難な状況に直面し、厳しい挑戦を受けながらも、その炎を絶やすことはなく、今日も炎を燃え上がらせている。心を動かすさまざまなもの、さまざまな思考やイメージが人々を圧倒する社会の中で、イエズス会は元来の霊感の火をあおり、現代人に暖かさと光をもたらしつづけようとしている。しかも、一つの物語を伝えつづけることによってそうしているのである。会員一人ひとり、そして会そのものは不完全な存在であるが、どの時代にもこの物語が伝えられてきたのは、慈しみ深い神が、イエズス会の火が消えることを許さなかったからである。ここでわたしたちは、この物語を生きた伝承として新たに表明し、今日の一人ひとりの人生の物語とつき合わせながら、それに意味を与え、混乱した世の中にあって指針をもたらそうとしている。
 
2.  何世紀にもわたって語りつづけられてきたイエズス会の物語は、多様性における一致を体験する基盤となった。わたしたちイエズス会員は、文化や生活状況の相違にもかかわらず、見事に一致していることにしばしば驚く。祈りのうちの識別、率直な討論、霊的会話を通して、わたしたちは、主において「一つ」1 であることをくり返し感じた。一致している使徒的組織として、教会の中で、また世界のために、今何が最も神に仕えることになるかを求めてきた。恵み溢れるこの体験は、『父祖の識別( Deliberatio Primorum Patrum)』の中で記された体験を思い起こさせる。創立当初の仲間たちは、弱くてもろい者、また、出身地も異なる者同士としても、相異なるさまざまな意見のなかで神のみ旨を見出すことができた。2 それができたのは、「まったく新しい道を拓き」、そして神のより大いなる栄光のためにその道に自分たちを献げるのに、「細心の配慮や敏感さ」があったためである。3 このように彼らは一つの物語をつづり始め、火を灯したのである。後のどの時代にも、火を灯すこの物語がイエズス会に出会った人々に伝えられ、どの時代の人々の個人史にもイエズス会そのものの歴史にも、この物語が書きこまれた。このように積み重ねられてきた歴史が、会員の一致の礎となった。その中心はイエス・キリストである。数多くの相違にもかかわらず、わたしたち会員を一つに結ぶのはキリストご自身と、キリストに仕えたいという望みである。「主の呼びかけに耳をふさぐことなく、直ちに、また熱心に、いと聖なるみ旨を果たせるように」4 とあるとおりである。キリストは目に見えない神の唯一の似姿(イメージ)5 であり、どこにでもご自分を現すことができる。しかも、多様なイメージが氾濫している文化の中で、キリストのみがわたしたちを一致させる唯一のイメージである。会員はキリストを見つめることによって、自らが誰であるかを知るようになる。

3.  わたしたちイエズス会員は、自分のアイデンティティを個人としてではなく、交わりのなかでとらえる。まず、わたしたちを呼んでくださる主との交わり、さらに同じように呼ばれる多くの仲間との交わりである。その根源は、聖イグナチオのラ・ストルタの体験に見られる。ラ・ストルタで、神の御子と共に「置かれて」、十字架を担うキリストに仕えるように呼ばれたイグナチオと最初の仲間たちの応えは、キリストの地上の代理者
であるローマ教皇に信仰への奉仕のために自分たちを献げることであった。神の御子であり、神の唯一のイメージであるキリスト・イエスは、彼らを一致させ世界各地に派遣する。この同じキリストが今も会員の生活の中心にあるイメージであり、わたしたちが全力を尽くして人々に伝えようとするのは、このキリストのイメージである。

イエスのように世界を見て世界を愛する
4.  会員一人ひとりのミッションの根底にあるのは、まさにキリストと共に世界のただ中に自分を置く「体験」である。6 この体験は、単に過去の時点で基礎として据えられたのち、時の流れとともに忘れ去られるものではなく、つねに生きつづける体験であり、共同体のなかでミッョンに従事する活き活きとした会員の生活を通して養われ、深められるものである。この体験は、何か「から」の回心と、何か「へ」の回心を含む体験である。聖イグナチオがロヨラで療養していたとき、心の奥底にいたる内的旅に発った。それまで楽しんでいた事柄がいつまでも残る価値がないことを次第に認識すると同時に、キリストの招きに応えることこそ心の平安をもたらし、主をさらに深く知りたいという望みを抱かせてくれるものであるということも分かるようになった。しかし後になって悟ったが、神を深く知るには、自分を駆り立てていた虚偽の欲望と対決しなければなら
ない。この対決の場がマンレサであった。そこで主は、彼を小学生のように扱い、世の中を別の目で見ることができるというところまで優しく手引きされた。そこで、イグナチオは秩序のない愛着から解放されて、7 神に向かって秩序づけられた愛と、すべてのものを神のうちに愛することに心を開くことができた。

同じ体験は各会員の旅の一部ともなる。
5.  マンレサに滞在中、イグナチオはカルドネール川のほとりで目が開かれるということも体験した。そこで彼は「すべてのものが新しく見えるようになった」。8 それは、すべてを見る目そのものが新しくなったからである。9 何もかも透明になり、神がすべてのものの奥で働いておられることが見えてきた。またその時点で、「霊魂を助ける」ように招かれたと感じた。こうした新しいものの見方のおかげで、イグナチオはすべてのもののなかに神を求め、神を見出すこともできるところまで導かれたのであ。

6.  イグナチオは与えられた洞察から観想的な見方を学んだ。この世を見る目、すべてのものの奥に神の働きを見る目、「神と霊魂や霊魂の徳などの限りない素晴らしさや魅力を」10 味わう観想的な見方である。「受肉の観想」11 を始めれば明らかになるように、イグナチオは痛ましい現実を甘く見たり偽ったりしない。むしろまさにその現実を出発点とする。貧困、強制退去、人間同士の暴力、いのちの放置、組織的不正、罪などの中に入り込むようなかたちで、神の御子がお生まれになると指摘する。ここでこそ、その素晴らしさが味わえるのである。しかし、現
実の中におられる神を味わい見ることがすぐにできるわけではない。イグナチオ自身も多くの痛ましい経験からこれを学びとらなければならなかった。そして、ラ・ストルタで十字架を担う御子と共に置かれるという恵みを受けて、彼もその仲間たちも、喜びや苦しみに満ちた御子の生き方に招き入れられたのである。

7.  同じように、今日のイエズス会も、そのミッションを遂行するなかで、主の仲間であること、そして十字架から来るチャレンジを体験する。12 「信仰の奉仕と正義の促進」13 と、諸文化や諸宗教との対話14 に献身するならば、会員は力の限界まで追いやられるが、そこでエネルギーや新たな生命力を受けると同時に、苦難や死にも見舞われる。そこにこそ、「神が隠されている」。15 神が隠れておられるという体験は、場合によって避けられないが、そう思える深い暗闇の中にさえ、すべてを創り変えることのできる神の光が輝くのである。隠れた中ででも、神は力強く働かれる。主は一人ひとりの人生や歴史の墓からよみがえって、突然現れ、友として慰めを与え、16 互いに兄弟やしもべとして集う共同体の中心となってくださる。17 人生のただ中に働かれる神を体験することによって、「キリストのミッションに仕える者」18 であるわたしたちのアイデンティティも常に新たによみがえるのである。

わたしたちの「行動様式」
8.  すべてのものの奥に神の命を見出すことは、わたしたちイエズス会員に委ねられた希望のミッションである。イグナチオが歩んだのと同じ道を、わたしたちも歩んでいく。イグナチオと同様に、心の奥に神の働きを受ける場が開かれるので、わたしたちもこの世の中を神が働かれる場として見ることができる。そこで神が人々に呼びかけ、人々と共におられるのである。こうしてわたしたちは、生ける水を与えようとなさるキリスト19 と共に、乾き果てた命のない社会の中に入っていく。わたしたちの働き方として、まず「どこででも」神の足跡を捜し出すのである。そのようにするのは、キリストの霊が、あらゆる場所や状況のなかで、またこの世の中で神の現存をますます感じさせる、諸活動および人間相互の和解のなかで、働いていることを認識しているからである。20 わたしたちは、すべての人とすべての状況の中で神が生き、働いておられるのを「感じとって味わおうsentir y gustar」とするミッションを担っているために、神の方にも世間の方にも同時に引き寄せられる緊張の中に生きるのである。こうして、ミッションに従事する会員は、イグナチオと同じように両極性を体験し、つねに神に深く根を下ろしながら、世界のただ中にも身を投じる。

9.  存在と行動、観想と活動、祈りと預言的生き方、キリストに完全に結ばれることとキリストと共に使徒的組織体として完全に世界に入りこむこと、これらすべての両極性は会員の生活につきものであり、その生活の本質と可能性をも示すものである。21 福音書の中で描かれるイエスは、深い愛のうちに御父と交わっていると同時に、人々のためのミッションに完全に従事している。神から出て、人々に向って常に動いている。これはイエズス会のパターンでもある。常に観想し、常に活動して、キリストと共にミッションに従事するというパターンである。祈りと活動、神との交わりと奉仕の緊張の中で生きることは、わたしたちの使徒的修道生活の恵みであり、創意工夫の求められるチャレンジでもある。

10.  祈りと奉仕という両極性を忠実に生きなければならない。この意識を保ちつづけるために、わたしたちは真摯に反省しなければならない。22 創造性を刺激するこの両極性はどうしても避けられないものである。活動における観想者、またこの世に派遣されたキリストの仲間であるわたしたちの生活の本質をなす両極性だからである。23 わたしたちの活動すべてに、常に神が見えてくる透明性がなければならず、わたしたちの生き方、人々に問いを抱かせるものでなければならない。「あなたがたはいったいどのような人たちなのか、こういうことをこんなふうにするなんて。」絶えざる騒音や刺激の多い世の中で、会員は、聖なるものを感じとっていることと、社会に積極的にかかわっていることを現さなければならない。神への深い愛と、神の世界への情熱がわたしたちのうちに火を燃え上がらせ、その火が周りに燃え移っていくことになる。結局、見る目のある人にとって、世俗的な側面しかないものはない。24 このようなものの見方を人々に伝え、『霊操』で経験する学び方を紹介するならば、人々、特に若い人々は、徐々にこの世界観を学び、彼らもイグナチオと同じ目でこの世を見ることができるようになる。イグナチオも、カルドネール川で悟ったことから始まり、世界の果てまでキリストのメッセージを伝えるミッションにたずさわるイエズス会の結成に到るまで、徐々に成長していった。そして、イグナチオの体験に根付くこのミッションは今日も生きつづけているのである。

ラ・ストルタの体験から形成された生き方
11.  聖イグナチオのさまざまな体験の中で、イエズス会設立につながる最も意味深い体験は、ローマに赴く途中のラ・ストルタの小聖堂での体験であった。以前よりたゆまず聖母マリアに願ったとおり、神秘的な恵みとして、「御父が御子キリストと共に置いてくださった」25 ことをはっきりと見た。ラ・ストルタで御父がイグナチオを十字架を担う御子と共に置き、イエスもイグナチオを迎え入れて、「私たちに仕えてほしい」と語ら
れた。そこでイグナチオは自分自身が神から認められたと感じ、地上でのキリストの代理者に仕えたいという望みに駆られていたグループの決意も神から認められたと理解した。「父なる神が『わたしはローマであなたたちを見守る』という言葉を彼の心に深く刻んでくださったと、イグナチオはわたしに話してくれた。」26 しかしながら、イグナチオは、このように神から認められたといっても、安易な道を歩むことができると楽観視する
ことなく、かえって仲間たちにローマで「多くの反対」27 に遭うだろうし、十字架につけられるかもしれないと話した。仲間たちのそれ以後の奉仕や派遣に関する独特の輪郭が見えてきたのも、ラ・ストルタで起きた主との出会いの時からである。それは、十字架を担うキリストに従うこと、教会や地上におけるキリストの代理者に忠誠を尽くすこと、また一つの使徒的組織体になって、主の友として、しかも主のうちに生きることである。

キリストに従って
12.  十字架を担うキリストに従うことは、今日人々を苦しめるすべての渇きに対して、キリストと共に自らを開くという意味を伴う。キリストは糧そのものであり、あらゆる飢え渇きを満たす方である。キリストは命のパンであり、飢える人々に食物を与え、彼らを一つに集める。28 キリストは命の水であり、29 サマリアの女との会話で話された生ける水である。この会話自体、弟子たちを驚かせた。イエスはその会話において、自由に流れる水のように文化や宗教という枠を越えて、けっして話してはならないとされていた人と会話したからである。イエスは、人々に語りかけ、種々の相違を受け入れ、新たな視野を開いた。イエスの奉仕職は境界線を越えたのである。弟子たちが避けようとした場所や人のなかでも神が働いておられることに気付くように、彼らを導いた。ザアカイ30 、シリア・フェニキアの女31 、ローマの百人隊長ら、32 回心した強盗33 などはそういう人たちである。渇く人すべてに命をもたらす水として、34 イエスは世界各地の荒れ地に心を向けた。荒れ地で渇いている人々は生ける水のありがたさが分かるので、イエスを歓迎する。生ける水というこのイメージは、キリストのミッションに仕えるわたしたちイエズス会員を活気づけてくれる。この水を飲んでその味がよく分かる会員は、渇く人々にそれを分け与えようとし、また境界線を越えて、水がまだ湧き出ていないところにいる人々に働きかけて、多様性に富む世界に対話を大切にする新しい文化をもたらすことになる。

13.  十字架を担うキリストに従うということは、この地球に住む
多くの貧しい人々に希望の福音を告げ知らせることでもある。この世のさまざまな「貧困」は、いわば渇きであり、この渇きを癒せるのは、結局、生ける水であるキリストのみである。キリストの国のために働くということは、しばしば物質的なニーズに対応することとなるが、必ずそれ以上の意味を持つ。なぜならば、人間はさまざまなレベルで渇くからである。キリストのミッションの対象は、その人間である。信仰「および」正義、一方なしには他方はありえない。人間は衣食住、愛情、交わり、真理、生きがい、約束、希望を求める。人間は自分の尊厳を全うできる未来を必要とする。また、各々限られた希望を超える「大いなる希望」をもたらす無限の未来を必要とする。35 これらすべては、キリストの奉仕職の中心にある。特に分かりやすい例を挙げれば、癒しは常に単なる身体的な次元を越えていた。重い皮膚病を患っていた人を癒すと同時に、イエスは、社会への復帰、すなわち帰属意識を与えた。わたしたちのミッションも、このイエスの奉仕職から始まる。イエスの跡を歩む者として、わたしたちは、困難にある人々を直接に助けるように召されていると同時に、それぞれの人に完全な人間としての尊厳を回復させ、彼らが社会に復帰し、神と和解するように働くのである。多くの場合、こういう働きには長期的な関わりが要求される。その例として、若い世代の教育、霊操者との霊的同伴、学問的研究、難民への奉仕などが挙げられる。しかしここでこそわたしたちは、神の恵みに支えられ自分の専門的能力を駆使して、神への奉仕に完全に献身するように努めるのである。

14.  御子の働き方は、御子のミッションに従事するわたしたちの働き方の模範となる。36 御子イエスは神の国を宣ベ伝えた。あるいはイエスご自身を通して神の国が現されたとも言えよう。37 またイエスは、自分の意思を行うためではなく、天におられる御父のみ旨を行うためにこの世に来た者として、自らを世に示した。イエスの一生は「ケノーシス(無にすること)」であった。どの状況のなかでも、自らを忘れ去り、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のため自らの命を身代金として与えることを望んでいたのである。38 この受肉と過越しの神秘は、イエスの生活パターンに繰り広げられる。そして、イエスに従うときに、同じ生活パターンがわたしたちの生活パターンとなる。イエスのミッションに従事する仲間として、イエスの道はわたしたちの道なのである。

15.  この道を歩んでいる現在のイエズス会員は、これまでの3 回の総会がイエズス会のミッションについて定めたことを新たに全面的に確認する。信仰への奉仕と正義の促進は、分たれない一つのものとして、いまなおわたしたちのミッションの核心である。これを選択したことによって、イエズス会の顔付きが変わったのである。わたしたちはこの選択を再確認し、殉教者や貧しい人々を思い起こす。彼らがわたしたちに福音の精神を伝えることによって、イエスに従う者としてのアイデンティティを培ってくれたことに感謝したい。「わたしたちの奉仕、特に貧しい人々の間での奉仕は、個人のレベルでも会全体のレベルでもわたしたちの信仰生活を深めてきた。」39 わたしたちは今日イエスに従う者として、文化や宗教面でわたしたちと異なる人々にも手を差しのべ、彼らと対話することがキリストのミッションへの奉仕に欠かせないと認識している。40 いかなるミッ
ションに従事しても、キリストがわたしたちを派遣するところに赴くことのみを求める。会員としていただく恵みは、キリストと共にあり、キリストと共に赴くことであり、キリストの目で世界を見て、キリストの心で世界を愛し、キリストの限りないいつくしみをもって世界の隅々に入っていくことである。

教会の中で世界のために
16.  わたしたちは、罪人でありながらも、清貧、貞潔、従順によってイエスに捧げられた仲間として遣わされる者と認識して、仕えようとする人々のニーズに耳を傾ける。わたしたちは、イエスの仲間として生きるように呼ばれて、良心報告によって統治され、従順によって一つに結ばれて、共同体を形成する。教皇、総長、任命された長上への従順により、わたしたちは教会の人間、そして教会のための人間である。41 すなわち、わたし
たちは、より普遍的な善にいつでも応需できることを目指し、つねに「マジス」、本当により良いこと、神のより大いなる栄光になることを望む。42 教会の普遍的ミッションのためのこの応需性こそが、わたしたちの会の特色であり、教皇に対する誓願に意味を与え、また教会において、どこで人々に仕えていても、わたしたちを一つの使徒的組織体にまとめるものである。

17.  イエズス会が他の修道会と異なるべき点は、何にもまして、従順においてである。聖イグナチオが手紙で書いたことを思い起せばよい。「他の諸修道会がそれぞれの会則に従って、尊くも守っている断食、大斎、徹夜の祈り、その他の厳しい苦行の点では、私たちは一歩譲ってもかまいません。しかし、自己の意思と判断とをまことに放棄する従順の完全無欠さの点では、親愛なる兄弟たちよ、このイエズス会にあって主なる神に奉仕
する人々が卓越することを…切望してやみません。」43 イエズス会特有の従順を際立たせるために、聖イグナチオは、従順の精神を表すSuscipe(主よ、受け入れてください)」の祈りを指し示したのである。

使徒的修道会として
18.  従順と並んで、清貧と貞潔の誓願も、わたしたちを教会のなかで、イエスご自身のイメージに形作る。44 また神の呼びかけに応えるわたしたちの応需性をも、はっきりと目に見えるものにする。この応需性は、会員一人ひとりの召命によって多様な形で表されるものである。イエズス会は、ブラザー、霊務助修士および盛式誓願会員の存在によって豊かで恵まれたものになり、養成中の会員によって特に活気づけられている。イエズス会は一つの家族をなす仲間たちとして、それぞれの恵みにしたがって、キリストのミッションに仕えるのである。45 わたしたち会員は、各々の恵みに応じて奉献生活を生きる。教会の中心となる秘跡に奉仕し、エウカリスティアやその他の秘跡を執り行い、神のみ言葉を忠実に宣べ伝える。このみ言葉の豊かさを世界中の人々にも分かち合うために、み言葉を地の果てまで告げ知らせるのである。

19.  会員の役割や使徒職が多様であるからこそ、仲間として共に共同体を形成することに大きな意味がある。共同体生活は、主キリストにおける友情、とりわけエウカリスティアにおいて表される信仰や生活の分かち合いを証しするのである。共に主に従うこと自体、主と共に行動する弟子たちの姿を指し示す。会員のアイデンティティと会員のミッションは、共同体の中で一つとなる。実際、アイデンティティ、共同体、ミッションは、
三面鏡のようなものであり、わたしたちの仲間意識をどのように理解すればよいかを明らかにしてくれる。この仲間意識があるからこそ、経歴も異なり、才能も多様な人々が、真の「主における友」として共に生活できる。会員のアイデンティティは、相互関係に基づくものであり、文化、国籍、言語の相違のなかで培われ、わたしたちを富ませると同時に、チャレンジにもなる。わたしたちは入会してこの過程に入り、日々成長していく。このように仲間として成長する共同体生活は、人々を惹き付けるものとなりうる。特に若い人たちに「来て見なさい」46 と呼びかけ、召命を受けて仲間となり、わたしたちと共にキリストのミッションに仕えるように招くものである。今日、これ以上に必要で、緊急なことはない。キリストのみ心は、多くの困難を抱えるこの世の人々への愛によって燃え上がり、この世界にあって仕える仲間を求めているからである。

新しい規模、新たな最前線へ
20.  キリストのミッションに仕えるために、今日においてそのミッションの「地球的」規模に特に注目しなくてはならない。わたしたちは、世界的ミッションを担う世界的組織体として行動するように要求されている。もちろん、それぞれの状況が異なっていることも忘れてはならない。わたしたちは、世界的共同体として、また同時に各地の共同体を結ぶひとつのネットワークとして、世界中の人々に仕えようとする。信仰と正義のミッション、宗教と文化の対話などは、すでに地球的な規模にまで広がり、もはや、孤立した単位から形成されたものとしてこの地球を見ることができなくなっている。わたしたちは、皆、地球を一つにまとまった、相互に依存する場として見なければならない。グローバリゼーション、科学技術、環境に関する懸念などは、伝統的な境界線にチャレンジを与え、地球全体の将来に対して共同責任を呼び起こし、持続可能で生命を生み出すような方法を用いた開発に対する共同の責任を担っているという意識を高めている。47

21.  現代の消費者優先文化は、情熱や熱意を育てるどころか、むしろ依存症や強迫観念を促すばかりである。これに逆らわなければならない。わたしたちは現代人の生活に参加しようとするならば、この文化的病と苦しみを共にすることが必要不可欠となる。このように大きく変動する現状では、わたしたちは会員として様々なレベルで協働することが重大な責務となる。そのため、管区相互の協力もますます必要になる。また、他の修道
者、信徒、各種の教会運動、信仰は異なっても価値観を共有する人々など、要するにすべての善意の人々と協力して働かなければならない。

22.  神が創造された世界には、さまざまな人がいる。すべては善いものである。神の被造界は愛すべきであり、豊かな美しさに満ち溢れている。一緒になって働き、笑い、栄えている人々48 は、わたしたちのうちに神が生きておられることのしるしとなっている。しかし、人々が互いに異なる結果、一部の者が栄えるために他の人々を排斥したり、戦闘によって互いに殺し合い、破壊することに心を奪われたりすると、多様性は問題を引き起こす温床となってしまう。49 そのような時、キリストのうちにおられる神は、世界の中で世界と共に苦しまれ、世界を刷新しようとされる。わたしたちのミッションはまさにここにある。「マジス」50 や「より普遍的な善」51 を基準にしてミッションを識別しなければならないのはここである。神は人生の暗闇の中におられ、すべてを新たにしようとなさる。神はこの計画のためにつねに協働者を必要となさる。御子イエスの旗の下に迎えられる52 という恵みを受ける人たちを求めておられる。地理的国境線を越える「国々」がわたしたちを待ち構えている。この「国々」の中には貧しい人々、難民、まったく孤独な人々、神の存在を無視する人々、そして政治的な目的のために神を利用する人々が含まれている。新しい「国々」があり、わたしたちはそこへ派遣されているのである。53

23.  ヘロニモ・ナダル神父の言葉を借りると、わたしたちの家は全世界だと言ってもよい。54 コルベンバッハ神父も最近述べているように、「定住修道院はわたしたちに合わないものです。わたしたちの宣教の場は全世界だからです。院内の禁域の中に閉じこもることなく、主が愛される数え切れない人々が世界の中にいるからこそ、わたしたちも世界の中にとどまります。」55 数知れないこの人々こそ、わたしたちの「対話」と「宣
教」の相手である。わたしたちのミッションはまさに教会のミッションであり、以前にわたしたちが気づいていなかったところにイエス・キリストを見つけ、以前にキリストが見えていなかったところにキリストを現すというミッションである。言い換えると、聖イグナチオが「愛を得るための観想」の中でわたしたちに勧めるように、「すべてにおいて神を見出す」ように努めることであり、56 世界全体がわたしたちの関心や配慮の対象となる。

24.  世界が変わるにつれて、わたしたちのミッションの「規模」も変わり、新たな最前線へと招かれており、それを喜んで引き受けなければならない。そのため今まで以上に深く、諸宗教との対話に携わることになるが、その対話から、神が愛される世界の至るところで聖霊が働いていることが学び取れる。もう一つの「最前線」であるこの地球にも目を向ける。荒らされて、略奪されたこの地球である。環境に対する正義を求める情熱を持つならば、そこでもまた神の霊と出会う。苦しんでいる被造界、生き続けるために呼吸できる余裕をわたしたちに求める被造界を解放しようとする神の霊に出会うのである。

「行って、全世界に火をつけよ」
25.  言い伝えによると、聖イグナチオが聖フランシスコ・ザビエルを東洋に送り出す際、「行って、全世界に火をつけよ」と言ったという。イエズス会の誕生によって、変働する世界に新しい火が灯された。修道生活に新しい形が生まれた。しかも、それは人間的な営みからではなく、神ご自身の働きによって生まれた。その時に灯された火が、今日のイエズス会の生活のなかでも燃えつづけている。聖アルベルト・ウルタードについて言われたように、「他の火をも燃え上がらせる火」であった。わたしたちは、この火をもって、すべてのものの中に神の愛を灯していくように召されている。57

26.  今日、この召命に対して新たなチャレンジがある。わたしたちは現代社会においてイエスの仲間としてのアイデンティティを発揮しようとするが、数限りないイメージ、混乱した文化の数え切れない表層が、鵜の目鷹の目でわたしたちの注意を引こうとしている。それらはわたしたちの内面に浸み込み、わたしたちが生まれながらに持つ欲望という肥沃な土壌に根を下ろし、わたしたちの内面の至るところに入り込み、無意識のうちに感情や判断力をコントロールしてしまう。しかしながら、わたしたちは唯一のイメージを認め、それを宣言する。それは神の真のイメージ、人類の真のイメージであるイエス・キリストである。イエスを観想する時に、イエスはわたしたちのうちに受肉され、わたしたちの心の傷を癒す。そして、キリストのミッションに仕える、個人、共同体、使徒的組織体としてわたしたちを成長させてくれる。

27.  傷ついた社会の中でこのミッションを生きるためには、わたしたちには兄弟愛と喜びに溢れる共同体が必要である。わたしたちは共同体のなかで、違いを乗り越えて創造的に生きるために必要な「情熱」をしっかりと育み表現できるようになる。この情熱は、主との常に新たな出会い、この世に対して思いを寄せ、愛情を注ぐ主との出会いから生まれる。この愛は、「聖霊のうちに御父から遣わされた御子のミッションに参加するように」58 わたしたちを招くのである。しかも、それは、「ますます熱心な奉仕の心で、愛情をもって、十字架がさまざまな形で現れる中で、すべての人、また被造界全体を御父の栄光に連れ戻したいと望んでおられるイエスに倣い、イエスに従いながら、キリストのミッションに参加するよう」58 に招いている。

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1『会憲』671参照
2『父祖の識別』(1539年) 1 (MHSI 63, 2 )
3『父祖の識別』(1539年) 1 (MHSI 63, 2 )
4『霊操』91
5 2 コリ4 : 4 、コロ1 :15、ヘブ1 : 3
6『補足規定』246, 4 、223, 3 - 4 参照
7『霊操』21
8『自叙伝』30
9 ディエゴ・ライネス「イグナチオ神父に関する手紙」(1547年) 10( MHSI 66, 80)
10『霊操』124
11『霊操』101-109
12『霊操』53
13 32総会第2 教令
14 34総会第2 教令19-21
15『霊操』196
16『霊操』224
17 マタ18:20
18 34総会第2 教令
19 ヨハ4 :10-15参照
20 第二バチカン公会議『現代世界憲章』22、34総会第6 教令参照
21 ペーター・ハンス・コルベンバッハSobre la vida religiosa, Havana( Cuba) 2007年6 月1 日, p. 1 参照
22 ペーター・ハンス・コルベンバッハSobre la vida religiosa, Havana( Cuba) 2007年6 月1 日, p. 3 参照
23 33総会34総会
24 ティヤール・ド・シャルダン『神の場』(1957年) 参照
25『自叙伝』96
26 ディエゴ・ライネス「エクサーメンに関する訓話」(1559年) 7 (MHSI 73, 133)
27『自叙伝』97
28 マコ6 :31-34と平行箇所参照
29 ヨハ4 : 7 -15参照
30 ルカ 19: 1 -10
31 マコ7 :24-30
32 ルカ7 : 2 -10、マコ15:39
33 ルカ23:39-43
34 ヨハ7 :38
35 ベネディクト十六世回勅Spe Salvi( 2007年11月30日)、たとえば4 と35
36『 霊操』91-98
37 マタ12:28、ルカ11:20, 17:21参照
38 マコ10:45
39 34総会第2 教令1
40 34総会第2 教令
41『 霊操』352-370参照
42『 霊操』23、『会憲』622参照
43「 ポルトガルの会員への手紙」(1553年3 月26日) 2 (MHSI 29, 671)
44 2 コリ3 :18
45『 会憲』511
46 ヨハ1 :39
47 Globalization and Marginalization, Social Justice Secretariat( ローマ) 2006年2 月, p.16-17
48『 霊操』106参照
49『 霊操』108参照
50『霊操』97
51『会憲』622
52『霊操』147
53 アドルフォ・ニコラス「イエズス会総長選出後、翌日に司式した感謝のミサ説教」(2008年1 月20日)
54 ヘロニモ・ナダル「アルカラでの訓話その十三」(1561年) 256 (MHSI 90, 469-470)
55 ペーター・ハンス・コルベンバッハ「イエズス会創立認可記念日を記念するミサの説教」(2007年9 月27日)
56『霊操』230-237参照
57 ルカ12:49
58 ペドロ・アルペ 「Trinitarian Inspiration of the Ignatian Charism」79、AR 18( 1980-1983) 150
 
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