わかちあい   
イエズス会の名称 
イエズス会の名称

 修道会が創立される何年かまえに名前が決まっていたといえば不思議に思われるかも知れないが、イエズス会の場合は実際にそうだった。そしてイグナチオは、かたくなともいえるような態度でこの名称に固執した。
 彼はパンプロナの防衛線で受けた戦傷を癒す病床での回心後、三十才を過ぎて勉学を志した当初から同志の者を集めようとしたらしいが、いつごろから修道会の創立を考えていたかはそれほどはっきりしていない。結局、彼とともに修道かを創立することになる六名の仲間を集めるのに成功したのは一五三四年パリのことで、彼が四十三才のときであった。フランシスコ・ザビエルもこの仲間の一人として加わっている。最初の試みから考えるなら十年以上たっていた。
 三年後、パリでの勉学を終えたこれらの仲間は、エルサレムに巡礼するためにヴェネチアに集まっていた。イグナチオにとり、イエズスが働き、十字架につけられた場所であるエルサレムへの巡礼は回心当初からの固定観念といってもよいほどの願望であった。すでに司祭叙階を受けていた彼らは、エルサレムで初ミサを立てることができる日を待っていたが戦争のために不可能になったので、廃墟となった修道院を借り、おそらく何週間かのあいだ彼らとしては初めての共同生活を送りながら、将来とるべき道について相談した。建物はひどく、夜はもはや単なる穴といってもよい窓をふさぐために石を積み上げ、藁を敷いて休み、朝になると窓から石をおろしたという記録も残っている。このころの彼らには、長い時間をかけた祈り‐個人的に考察する‐意見の交換をくりかえすという相談の形も決まっていたらしい。コンパニア・デ・ヘスス(イエズスの会)というグループの名前を決めたのはこのときのことである。のちに一五三九年ローマで修道会の創立を決めたときにも、全員が一致してこの名前を選んだ。イエズスの名はキリスト者すべてのものである、という理由でこの名称について外部の人びとから攻撃されたとき、イグナチオに名称を変更するように提案する者もあったが彼はこの点については決してゆずろうとしなかった。彼ら、とくにイグナチオにとって「イエズスの会」という名称は、キリストに仕えるため、キリストが全く自由に使うことができる仲間の集団を意味していたので、名称そのものも会の本質的な要素となるものだった。
 最初に仲間を集めようとしたときから「イエズスの会」としての修道院を創立するに至るまでの期間だけを見ても、イグナチオが経験したものは迫害といってもいいような反対の連続であり、決して生易しいものではなかった。一五三四年、仲間として彼のまわりに集まってきた人びとも、すぐれた人物ではあったが、「良才令し難し」ということばどおりの人物でもあった。キリストにすべてをささげ、霊魂の救いのために人びとに仕えるというイグナチオの心に燃えていた理想に引き寄せられて集まってきた人びとではあったが、そのための具体的な手段になると決して一致していたわけではない。一五三九年にローマで修道院を作ることを決めるためには、先に述べたとおりの形で、三か月をかけ話し合うことが必要であった。
 これらの難しい状況のなかで彼を支え、反対と挫折にもくじけることなく、また、仲間を導くにあたっては常に全員の一致を得るまで妥協し、調整し、忍耐することを得させたのは、戦傷を癒す病床での回心の経験に始まり、マンレサでの位置に一数時間におよぶ祈りと苦行の数か月、有名なカルドネル河畔での神秘的な体験、それからヴェネチアからローマへの途上に経験したイエズスの示現などを経て彼の心に深まっていたイエズスへの激しい愛だった。たしかに彼は武人であった。性来強い意志の持ち主でもあった。しかし同時に、回心の直後ロヨラ城からモンセラットに向かう途中、聖母マリアについてモール人と論争し、幸いに道を違えたので見つけることができなかったが、そのモール人を「短刀で刺そう」としてあとを追ったほどの激しい気性の持ち主であった。しかし、その後の彼が示した強さは武人としての強さだけでは説明しきれない種類のものである。
 キリスト、それも十字架につけられたキリストと似た者となり、このキリストとともに神に仕えること、彼のこころのなかに燃えていたこの理想が「イエズスの名をもって呼ばれることを望むこの会」(イエズス会基本精神綱要)を生み出したのであり、ちょうどそのため、彼はこの名称については妥協できなかったのである。

中井 允(まこと)-(イエズス会司祭 故人)

 
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