わかちあい   
ロヨラのイグナチオと霊操  
 ロヨラの聖イグナチオが遺した、「霊操」と呼ばれるごく小さな著作は、今日においても少なからぬ人々に霊的な刺激を与え、彼らの霊的な「援け」となっている。霊操と云う語のいささか異様でなじみ難い訳語の元来の意味は、しかし単純はっきりしている。つまり。霊的な練習と云う意味である。体操が健康維持に不可欠なごとく、霊操の指導者によれば、救霊と云う重大な課題のために、不断に自分の生活をととのえながら、神の望みを「探し、見出し、果たし」て行くにも、確かに、たゆみない霊的練習が必要なのである。ロヨラの聖イグナチオは、この霊的な練習の歩みを神の驚嘆すべき導きの下に切実に体験した。「二十六歳の時まで世俗の虚栄におぼれていた」彼の転機となったパンプローナの戦いでの負傷と故郷での療養生活、そこで、「医師たちも、殆どさじを投げてしまった」病状からくしくも癒され、「まだ盲目ではあったが、しかし力の限り主に仕えようと切望して」始まった、ほぼ二十年の波乱万丈の遍歴時代と続く十五年は総会長として「キリストが御自身のため、また人々の霊魂への助けとするためにお始めになった業」つまりイエズス会を統治したその全生涯を通じて、彼は霊魂の練習つまり霊操の人であった。彼自身が語っているように、「霊操は一時に書いたものではなく、霊魂の中を観察し、自分の役に立ったことで、しかも同時に、他人にも役に立つと思われるものを、そのたびにかきつけていったもの」であった。この素朴な述懐の言葉のうちに、「霊操」を著した聖イグナチオの純粋な意図がよく示されている。それは、「霊魂の中を観察」する深い霊的洞察と識別から、つまり、彼自身が体験した上からの恵みの援助から生まれたものであり、同時に、その恵みの援助を通して「人々を援助したい」と云う彼の強い望みから生まれたものである。「霊操」こそは、イグナチオ自身が恵みによる神との深い出会いから体験した救いの道を、人々へのこの上ない「援助」として提供しようとしたものなのである。聖イグナチオはかつての恩師への手紙のなかで、恩師が「霊操」をされることを「私の一生の最善のご恩返しと思います」と述べている。
 イグナチオの深い神体験と、そこから当然に溢れでたごとく、神の切なる望みであるが故に、救いのため「人々を援助したい」使徒的熱意は、この「小さな手引書」の随所によみとれるが、例えば、「主の降誕の観想」で彼が与えるつつましく簡潔な要点は、彼の心の高さ、深さを垣間見させる印象的な箇所の一つであろう。
観想における人物を見ること。すなわり、聖母マリア、ヨゼフ、はしため、また、誕生直後のみどりごイエスを見る。さながらそこにいるかのように、できる限り畏敬と敬意をつくし、自分を貧しき者、とるに足りぬ小さき下僕とみなし、このかたがたを見、観想し、入用な物の世話をする……。
この短い叙述に於いて、聖イグナチオは「みどりごイエス」のうちに何を見たのであろうか、また、我々に何を見させたいのであろうか。恐らく、「われを愛して、わがために死なれた主」と告白した聖パウロの言葉がその最適な答えであろう。「とるに足りぬ小さき下僕」に示された、主のかたじけない無償の恩顧に対して、いったい如何に応えるべきか。もしも、この主のために、それがなんであれ、「入用な物の世話」をさせていただけるなら、この貧しき下僕にとってなんと云う栄誉であろうか。そして、主の何にもまして渇望される「入用なもの」は常に、「人々の救い」、「人々を助ける」ことなのである。「霊操」はそれゆえ、先ず人に「主からの助け」を体験させ、同時に、その体験から「人々を助ける」奉仕へと人を駆り立てていく霊的なひとつの道である。
イグナチオは、かつての郷里のロヨラで足の傷を癒していた時、つれづれに、キリストと聖人たちの伝記を読んだことを、後年、口述した所謂「巡礼者の書」で簡潔に語っている。それは、やがてキリストを知るにつれ、さながら聖パウロの如く、キリストへの愛の奉仕に捕らえられて行く発端となった。聖イグナチオは「霊操」の中で、「万物永遠の王」であるキリストに対する赤裸々な思いを表して、「その道においてあなたに従い倣うことこそ、私が望み、切望し、熟慮のうえで決定していることです」と述べている。「霊操」の中心に、イグナチオは福音のイエス、受肉された貧しいイエスを見ており、このイエスに徹底して「従い倣う」ことを望んでいる。貧しいイエスは、神でありながら、「私たちのために」貧しくなられたのであり、それは、はかり知れない神の愛の啓示であった。貧しくなられたイエスは、その全生涯を、貧しく生まれ、貧しく生き、そして貧しく死なれた。こうして、全てを私たちのために使い尽くして、私達を救おうとされた。
朝はやくまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんながあなたを捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くの他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのために私は出て来たのである」。そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
これは、マルコ福音のわずかな節に過ぎないが、御父を親しく体験されたイエス、その体験に強められたイエスが、すべての人の(根本的な)求めに応じて、惜しみなく自分を与え尽くされる姿を鮮やかに示しているのではないだろうか。イグナチオの「霊操」の意図も、このイエスに「従い倣いたい」心から来ていると、私には思える。

瀬戸 勝介(イエズス会司祭)
 
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