わかちあい   
コロンビエールとイエスのみ心の信心 
コロンビエールとイエスのみ心の信心
 今年五月三十一日に、ヨハネ・パウロ二世教皇は、イエズス会司祭クロード・ラ・コロンビエールを聖人の列に加えてくださいます。一九二九年にピオ十一世教皇によって福音の列に加えられた彼が列聖されることを、イエズス会が特に熱烈に望んでいたのです。というのは、イエズス会の宝であるイエズスのも心の信心とコロンビエールとの間には密接な関係が存在するからです。コロンビエールは一六四一年にフランスのリヨン村付近に生まれ、イエズス会の学校で学び、十七歳の若さで同会に入会しました。入会について彼は次のように書きました。「入会を決心することに対して、わたしは大きな抵抗を感じました。しかし、神様、ご存じの通り、あなただけが善いお方で、あなただけが愛に値するお方であることをわたしが痛感したので、入会せざるを得なかったのです」。
 司祭叙階後、彼は教員となり、パレール・モニアルという町にあるイエズス会修道院の院長となりました。そのとき彼は同市にある聖母訪問会の修道女たちの聴罪司祭として、マルガリタ・マリア・アラコックの霊的指導者となり、彼女がイエスから受けたみ心に関する啓司が本物であると判断し、彼女にも、またその長上にも、この信心を広めるように勧めました。アラコックによれば、イエスご自身がコロンビエール及び他のイエズス会士たちがこの信心を広める上で助けとなるであろうと、彼女にお告げになりました。
 コロンビエールは長くバレーに滞在することができず、長上によって、ヨーク公爵の妻であり、カトリック信者であったマリー・ベアトリスの聴罪司祭としてイギリスに派遣されました。彼はそこでもイエスのみ心の信心を人々に勧めましたが、突然カトリックに対する迫害が起こり、投獄されました。ついに釈放されてフランスへ追放されましたが、牢獄で感染した結核で四十一歳の若さで亡くなりました。
 コロンビールの生涯は、以上のような目立たないものでしたが、彼が始めたみ心の信心が他のイエズス会士やほかの多くの人々によって受け継がれ、教皇たちによって承認され、今日に至るまで教会の中で多くの実りをもたらすようになりました。

イエスのみ心の信心とは
 仏教では“信心”という語は重大な言葉とされています。たとえば、親鸞の教えをまとめた『歎異抄』に、「弥陀の本願には、老少善悪のひとを選ばれず、ただ信心を必要とするべし」と記されています。キリスト教では、信心よりも信仰が中心となりますが、信心をその信仰を深める方法とも考えることができます。イエスのみ心の信心によって信仰がどのように深められるかということについては、ピオ十二世教皇がイエスのみ心について発布した回勅の中につぎのような説明があります。「この信心は、イエスを通してわたしたちを愛してくださる神の愛を礼拝し、神と人々に対する愛を実践することによって実行されます。信心の中心は、神のわたしたちへの愛であり、その目的は、この愛に感謝し、それに従って生活することです。」
 聖書はたびたび、心について語っています。イエスは心を尽くして神を愛することを最大の掟と言い、心の清い人が神を見ると述べ、人の富のある所にその心もあると言われました。また、パウロも手紙の中で「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ロマ四の18)と書いており、ヘブライ書には「真心から神に近づこう」(ヘブライ十の22)と書かれており、ペトロの手紙には「心の中でキリストを主とあがめなさい」(一ペトロ三の15)と記されています。したがって、聖書によると、心は人の内部の奥底、人間の根本決断が行われる場を意味しています。イエスの心について、イエスご自身、「わたしは柔和で、心の謙遜な者である」(マタイ十一の29)と言われます。イエスの心の中にあったのは、愛だけです。御父への愛と、すべての人間への愛だけです。まさに「老少善悪に人を選ばず」、すべての人を包む愛なのです。その愛のゆえに、イエスは十字架上の死を甘んじてお受けになりました。また、第二ヴァティカン公会議が言っているように、「愛及び愛の作ったものがいつまでも存続する」から、死んだイエスが復活されたのです。
 今生きているこのイエスによって愛されていると信じ、他のすべての人間もイエスの愛に包まれていると信じている人こそ、自分の人生を愛の歌にすることができます。イエスの愛を忘れて、自力に頼って愛を実践しようとする人は、早いうちに疲れてしまいます。イエスと共にいるときのみ、人は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(一コリント十三の7)愛を持ち続けることができます。
 長いあいだ牢獄にいたハンガリーのイエズス会の元管区長がわたしに次のように言ったことがあります。「わたしたちの修道会を『イエズス会』と呼ぶのは正しくありません。『イエスの会』と呼ぶべきです。昔の人の思想を研究する学会のようなものではないからです。今生きているイエスを囲んでいるその仲間たちの集いなのです。聖イグナチオはこの意味でわたしたちの会をCompania de Jesusと名付けたのです。イエスの仲間たちですよ、わたしたちは」。
 イエスのみ心の信心を大切にすべての人は、この意味で、自分が「イエスの会」に属する人であると言うことができます。そのような意識を持っていればこそ、人は現代社会においても、平和な心で常に愛に生きることができるのではないかと思います。イエスのみ心の信心の最良の実行はこれです。
ペトロ・ネメシェギ(イエズス会司祭)
 
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