わかちあい   
中間期 
私が、大学を卒業して最初に派遣されたのは、広島学院の清友寮であった。寮には中一から高三まで一二八名の生徒が生活していた。学校で中学二年生に倫理を週一時間教える他は寮生と共に生活した。私にとって中間期とは寮での二四時間の生活であった。当時は、大学紛争が下火になり、逆に高校での紛争が盛んになった頃であった。着任早々、舎監長は長期休暇で祖国に帰国され、臨時の舎監長が任命されたが、やがてその舎監長も修道院の院長に任命された。そのような時期に学園紛争が起こったのである。退寮して大学生と一緒にデモなどに参加する生徒もいる中で一二八名の生徒達の安全と落ち着いた学園生活をどのように保持できるのか。毎日のように教員、生徒、保護者の間でも話し合いが繰り返された。私の場合は、教室で何かの教科を教えるというよりも、病気の生徒があれば、病院へ走り、ケンカがあれば仲裁し、学習面でも遅れている生徒があれば、舎監室で勉強をさせる役割であったので学校の事情はあまり分からなかった。むしろ、寮の中で規則を守らない生徒に罰を与えることが、中間期生の主要な務めの一つであった。寮に来た最初の日に、生徒には甘い顔を決して見せてはいけない、と舎監長から言われていたので、心を鬼にして、決して生徒を甘やかすことのないように、管理者に徹することにした。二年間の中間期を終わって、毎日の厳しい舎監生活から解放されて、ホッと一息ついてから、人気のないガランとした寮の舎監室で、引越しの荷物を準備しながら、教師とは何かを自問したとき、自分はこの寮で何をして来たのか、と大いに反省し、管理者でしかなかった教師生活の空しさを味わった。また、責任がなくなると、今まで持ったことのなかった生徒に対するいとおしい気持ちが沸いて来た。教師生活はもうこりごりだという嫌悪感と同時に、もしも将来、教師になるようなことがあれば、二度とこのような過ちは犯したくないと深く反省した。多かれ少なかれ、中間期では皆、人生における悲哀と喜びの両面を経験するのではないだろうか。
 イエズス会に入会してから、長い養成期間中には、それぞれの段階で喜びや悲哀を味わう。各段階で味わった多様な経験を通してコクのある会員が育って行くのだろう。修練では祈りを通して自分と回りの世界の意味を深く知り、哲学の勉学期間には、人間に本質について学び、さらに、中間期では人々と共に生活しながら、初歩的な宣教活動を現場で体験する。つまり、教員免許を取るために教育実習必要であるように、中間期では、会員と一緒に働きながら、イエズス会が行っている活動を実体験するのである。
 そもそも中間期という名称はどこから来たのであろうか。哲学課程と神学課程との間の機関にある人という意味で、「中間期生」という言葉が作られたのであろう。ところで、外国では中間期と中間期生とのことをリージェンシー、リージェント(regency, regent)と言う。戯れに、言葉の意味を調べてみた。リージェンシーとは、「摂取期間」、リージェントは「摂取」のこととある。これでは意味が良くわからない。大きな辞書では、アメリカのカトリック大学などの「学生監」とある。中間期生のイメージに最も近いのは、学生寮の舎監ではないだろうか。日本での中間期を振り返ってみると、その多くは、他の国と同じように中高での教師の体験であるが、その他にもいろいろな過ごし方があり、それはその時々の養成の在り方によって決められている。ある者は、日本でなくて、マニラのアテネオ大学付属高校や南太平洋のトラック島ザビエル高校で日本語を教えたり、ある者は、韓国で朝鮮語を学んだりした。また、日本の大学に内地留学しながら、イエズス会の経営する大学生の寮で舎監をしたり、また、ある者は、釜ヶ崎の家で働く会員と一緒に中間期を経験している。
 いずれにしても、中間期の目的は、イエズス会員の考え方や行動様式を実際の宣教活動の場で習熟し、自分の人間としての、また、修道者としての、キリストにおける成長と統合を得ることにある。こうして、「他者のために生きる存在」としてのイエズス会の召命を体得するのである。
 このような目標のもとに、中間期では、自分の才能を知り、それぞれの働きの場で、自分の能力を惜しみ無く使い、自分のタレントを磨き、創造性や適応能力、リーダーシップなどの力を開発するのである。こうして、自分の欠点や長所を知り、真の謙遜を身にまとい、いつでも、だれにでも仕える人間に成長するのである。また、仲間意識を深め、イエズス会の会員と一緒に働くことによってイエズス会の共同体に真に仲間入りすることであり、また、その働きを通して、他者の必要にいつでも、どこでも応えることのできる応需性を養うのである。中間期は決して楽な時期ではない。むしろ、困難と危険と挫折を伴う時期である。そのため、この時期にそばにいて助けてくれる人々が必ず必要である。また、中間期生が一緒に集まって自分たちの体験を分かちあったりし、反省して、新たな力を得る機会がどうしても必要である。そのため一年に少なくとも二回、中間期生の集まりが開かれている。こうして、二年間の中間期を無事に終えることができれば、イエズス会に深く入り、本格的に司祭叙階への最終段階である神学の勉強に進むことができる。

松本紘一(イエズス会司祭 アルぺ国際神学院院長)

Links:
南の島での中間期
六甲学院での中間期

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