わかちあい   
召命‐それは神からの招き 
イエズス会における召命と養成について


 男性であれ女性であれ、すべての人は神によって創られた…これがカトリック教会の信仰です。より現代的な言い方をするならば、すべての人は神から生命へと招かれたのだと言えるのだと思います。つまり、我々の召命は、一人ひとりの歴史の出発点からすでに始まっているのです。こうした招きに気付かない人は多く、そのような人々の人生は、偶然の出来事や偶然の出会いによって決まってしまいます。これは非常に悲しむべきことです。なぜなら家のポストの中に素晴らしい招待状がせっかく入っているのに、そのポストが何なのかも知らず、開き方もわからない…、そのような状況に似ているからです。
 私たちの召命というポストは「深い望み」と言えると思います。幸福を求め、何かを成し遂げたいという心の中の深い望み、神に仕え人類に奉仕したいという深い望みです。この深い望みは我々の心の心底、アイデンティティのーの最も奥まった所にあります。ふつう、この深い望みは日々の生活の表面的な楽しみや我々が直面する困難にすっぽりと覆い隠されています。しかし時として、聖書の言葉、司祭や親友の言葉、あるいは思いがけない出会いが、その包み隠された我々の深い望みにまで届き、神を渇望していることを強く感じさせてくれることもあるでしょう。また、私たちは生まれた時から神を求めているということに気づくためには、長い沈黙、つまり、黙想を体験することが必要な場合もあります。
 そして私たちは第二段階、「識別」の段階に入ることができます。「識別」は皆さんにとって馴染みのない、難解な言葉に思われるかもしれません。しかしながら、この語の背後に隠された実態は非常に単純なものです。私たちは、神がどちらの方向に招かれているのかを自らに問いかけなければなりません。結婚することで聖性へと招かれることもあるでしょうし、修道生活に入ることによって招かれているのかもしれません。どちらを選ぶべきか、わかりやすい時もありますし、我々の感情が違う方向に進ませ、混乱してしまうこともあります。こうした時、霊的な指導者(同伴者)が共にいてくれることは大きな助けとなります。ただ私たちの話を聞いて、心の動き(霊動)をよく知っていて、私たちの人生をはっきりと見つめ、そんな同伴者がそばにいてくれるだけでいいのです。このような助けを借りながら、私たちは自分の中の「深い望み」に従って、神が招かれる路を選び取っていくのです。
 このようにして、これまで多くの青年がイエズス会に入会しました、彼らはキリストにつき従う者として生きることを選びました。キリストの運命を分かち合うこと、キリストの使命と共に生きること、それが彼らの召命なのです。キリストに奉仕したいという強い望みに導かれ、宣教師として日本へたどり着いたフランシスコ・ザビエルのような聖人たちの例を私たちは知っています。けれども、イエズス会員になるということは過去の遺物ではありません。今日の世界においてキリストは、福音を告げ知らせ、とりわけ貧しい人々に神の愛をもたらす、というキリストの使命に多くの若者を招いているのです。
 こうした、「キリストの友」は全員が聖人であるわけではなく、韓国や日本を含む世界中の国々から集まったごく普通の男性です。しかし、世界に奉仕するために派遣されるまでには、この奉仕がより有意義なものとなり、神のより大いなる栄光のためになるように、長年の準備期間を経る必要があります。二年間の修練で青年は清貧、貞潔、従順の誓願をたてるための準備をします。それはこれらの誓いが自由へ至る道、より大いなる奉仕のための道であることを理解するための準備期間なのです。二年間修練院で世間と離れて生活を送った後、基礎的な教養と哲学を学びます。このような学問を通して、福音宣教に携わるための精神を育みます。また共同体生活によって欠かすことのできない心身の統合が促されます。そして哲学の勉強を終えた若きイエズス会員は通常、二年間の使徒的活動、いわゆる「中間期」を経験します。一旦勉学を離れ使徒的奉仕の現場におもむき、それまで奉仕のために学んできたことを実際の経験の中で全て整理し直します。中間期の後、四年をかけて司祭職の準備として神学を学びます。このような準備期間を経て、イエズス会員はこの世界へと出かけていき、この世界に奉仕できるようになるのです。

オロリッシュ・ジャン・クロード(イエズス会司祭 上智大学外国語学部教授)

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