わかちあい   
大学 
日本管区の使徒職「大学使徒職」

● 若者とともに歩む教会を目指して ●
- 具 正謨 -


(中央:具神父)

 2009 年度の春学期が終わった。今学期をふりかえてみると、以前にもまして多忙だったという印象をもつ。その理由の一つに、「上智大学カトリック学生の会」(以下、「カト学」と略記)の指導司祭になったことが挙げられる。上智大学の学生たちとはゼミや授業などで7 年以上関わってきたのだが、「カト学」との関わりは今までの関わりとは異なるものであった。「カト学」は、一つの小さな小教区のようなものである。メンバーは全員で40人ほどであるが、彼らの普段の活動は非常に多様で、その範囲は一つの小教区に似ているからである。「カト学」の活動内容を簡単に紹介すると、彼らは年中行事として復活祭とクリスマスの典礼、「ソフィア祭のバザー」、「ザビエル・ウィーク」、「黙想会」、「春の合宿」、「夏の合宿」などを実施し、毎月の誕生日会や毎週水曜日と金曜日の学内のミサの企画も行う。今年は「カト学」が50周年を迎える年だったので、5月31日には120名ほどの先輩たちを招いてミサと記念レセプションで祝った。その準備にたずさわる役員は、4 月と5 月の二カ月間、ほぼ毎日集まっていた。指導司祭としてわたしにできることは、学生たちの精神的な支えとして、彼らのそばにいて、彼らが必要としている時に助けるということであった。もっとも、経験不足や自分の忙しさなどで十分にできなかったことを反省している。
 さて、「カト学」との関わりを通して、学んだことも多い。無神論的な冷笑とペシミズムによって特徴づけられるポスト・モダン時代に、このように熱く、純粋な信仰を生きるグループがあるということは、何より大きな喜びであった。これから彼らと関わっていくうえで注意したい点を、いくつか分かち合いたい。まず、若者たちが求めている望みに積極的に応えること。現代の若者たちは深い意味で生きる意味を求めている。彼らは現代社会が抱えている不安と孤独の中で、how to live を各自問うている。それはお金や社会的な成功が与えることができない、もっと精神的な次元のものである。日本ではここ数年間カルトなどが引き起こしたスキャンダルのために、教会の宣教に向かう態度がなんとなく消極的であったように思われるが、このような時期こそ教会は若者に向かってもっと積極的にキリストの福音、キリストが伝えた神の国の価値を伝えなければならない。次に、国際的な感覚を広めるチャンスを与えること。たとえば、上智大学や東京教区の若者たちが隣の韓国教会の青年たちとの交流会を行ったり、カンボジア・キャンプ、ワールド・ユース・デイなどに参加したりすることは、彼らに新たな出会いと友情の機会を与える。文化や言語の違いを超えるつながりの感覚を養うのは、信仰の普遍性を理解するうえで重要である。第三に、ミサがいのちを養う場であるということ。当たり前のことであるが、ミサは信仰体験の源泉である。しかし、若者たちがミサを通して本当に神の恵みに触れられるためには、彼らのコードにあう典礼を工夫する必要がある。その中でも特に「音楽」と「説教」は、若者の信仰理解に深い影響を与えるものである。第四に、洗礼を受けていない若者や外国から来た若者と一緒に、共同体を造っていくこと。「カト学」の中に入って驚いたことは、メンバーの半数以上は洗礼を受けていない人々であるということであり、更に驚いたのは、未信者の人々の中に深くキリストを理解し、その信仰を生きている人々が多いということであった。「カト学」は信者・未信者の相違を超えて、キリストを中心とする輪を造る信仰共同体の模範になりうる。そういった相違を超えて、人類が神の恵みにひとしく与るということはキリスト教の本来の教えであろう。「カト学」は、その真実を自ら体現している共同体なのである。この輪が聖霊の恵みに息吹かれ、ありとあらゆる相違を乗り越え、ますますキリストのからだになっていくことを願う。

(く ちょんも 上智大学神学部神学科勤務)
カトリック学生の会のメンバーとともに




大学における研究職
─哲学研究の視点から─
中村 秀樹

 イエズス会はその歴史の中で、中高等教育の領域においてさまざまな貢献をしてきました。再渡来後の日本での宣教も、この領域に一つの強調点を置いてきました。実際、フランシスコ・ザビエル来日から359年後の1908年に、三人のイエズス会員が横浜に上陸した目的は、教皇ピウス十世の命を受けて、日本にカトリック大学を設立することでした。その目的の実現の第一歩として1913年にその歴史が始まった上智大学は、日本でも数少ないカトリックの総合大学として、教会に対する知的奉仕だけでなく、一般社会に対してもさまざまな仕方で影響を与え、使信を伝えてきました。今のイエズス会日本管区においても、上智大学における知的使徒職はその活動の一つの柱となっています。ここでは、イエズス会の知的使徒職において長い伝統を持つ哲学の観点から、大学における研究職が持つ意味を考えてみたいと思います。
 私は入会後、ドイツで神学、哲学の専門研究を行い、現在上智大学文学部の哲学科に専任教員として派遣されています。私の専門領域は、古代中世哲学、形而上学、倫理学、哲学と神学の境界問題、中世写本研究で、哲学科の学部・大学院で教え、神学部神学科でも哲学関連科目を担当しています。また、大学の付設研究所である中世思想研究所の運営に関わる同時に、ドイツで私が働いていた専門研究機関との連携を保ち、定期的な研究滞在を通して最新の研究成果を日本での教育に反映しようと心がけています。私の専門領域は、神学の方法的基礎についての反省を含むので、それは司祭、修道者、信徒の養成に密接に関わる者として、教会に対する奉仕としての性格を持っています。しかし哲学が理性による営みである限り、私の教育研究活動は、キリスト教の信仰を前提とせずに、哲学的思惟に関心を持つすべての人に対して向けられています。このようなすべての人に開かれた専門領域の教育は、まず学問として十分な厳密さをもって為された深い研究に基礎付けられていなければなりません。私が関わる分野の場合、私自身が司祭養成のために学んできた領域がそのまま専門研究領域の基礎となっています。そのため、イエズス会員が神学・哲学以外の専門─例えば法学、経済学、自然科学─において研究者として働こうとする場合に生じ得る困難、すなわち司祭養成の勉学と自分の専門との間の緊張は生じてきません。むしろ、日本の一般の研究者にとってなかなか修めがたい広範な基礎研究を行ったことは、高度な研究の前提要件として有利に働きます。西洋哲学は、古代末期以来、キリスト教との関係において根本的に規定されており、キリスト教をしっかりと捉えることなく、西洋哲学を深く理解することはできません。これは、多様な仕方でキリスト教との緊張関係を示す近現代の思想についても妥当します。したがって、キリスト教の歴史と神学を徹底して学び、また重要な古典語、特にラテン語とギリシア語の訓練を長年にわたって受けることは、西洋哲学の専門研究を極めるために最適な準備なのです。実際にこれまでにも、イエズス会の司祭として、その深く徹底した養成をもとに、日本の哲学研究に対して貢献をしてきた会員が何名もいます。もちろん一般の研究者と関わる際には、哲学が理性による万人に開かれた学問である以上、同じ土俵に立つことが重要です。ある思想の背景について十分な知識があるからといって、その理解を言わば上から提示するならば、本当に意味のある哲学的対話は成り立ちません。また逆に、司祭であるということだけで、一般研究者たちに対して説得力のある高い質を持った研究を保証するわけではありません。ひたすら専門研究に打ち込み、その実りを多くの人々にしっかりと理解してもらうことが重要なのです。教育・教授活動が、地道で徹底した精確な研究に基づく時、その結果として、ヨーロッパの思想が長い間課題としてきたキリスト教の福音そのものに対して、信仰を持たない人々が目を向け、その意味を真に理解することができるでしょう。
 確かに昨今の日本の大学事情は、哲学のようなすぐに目に見える利益につながらない基礎専門研究には、大変厳しい状況となっています。少子化に伴う大学間の生存競争は激化しており、各大学は教育すべきことを確信をもって教え続けるというよりは、むしろ学生が好むサービスを提供するために奔走しているように見えます。しかし哲学の専門研究は、司祭修道会としてのイエズス会のあり方に深く関わっていると同時に、信仰の有無を問わずすべての知的関心を持つ人々との関わりを可能にするという点で、特に日本のような宣教地においてはその重要性を保ち続けます。それはそれ自体として意味のある学問的営みであるだけでなく、キリスト教的思惟の伝統の豊かさに触れる機会を通して、人々に現代の諸問題を考えるためのさまざまな助けを与える、開かれた奉仕なのです。

(なかむら ひでき 上智大学文学部哲学科勤務)

 
  Login Administrator

 

 
  @copyright 2009 Japan SJ