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社会使徒職

構造的罪の世界に生きる私たち

現在、世界中で失業者が増加し、日本でも、貧富の格差は拡大し、貧困層・失業者・野宿者が増加しています。一方で、増大する社会不安を押さえつけるかのように治安強化も進んでいます。このような状況下、経済的に困窮する人々は自分自身を追い込み、極度な精神的不安に陥っているケースも多々あります。

この状況での社会使徒職とは、何なのでしょうか。

もちろん、苦しみの中、不正の中にある人々と共に歩むこと、彼らへの支援はその一つですが、それだけでは十分ではありません。

なぜなら、このような苦しみ、不正な状況は、私たちの日々の生活、営み自体が作り出す社会構造自体が原因だからです。

これは、「構造的罪」と言えます。私たちは、構造的罪の中に生きています。

私たちが構造的罪の中に生きていることを意識し、できるところからその変革に取り組んでいくことは、すべての人々への呼びかけではないでしょうか。

キリストの無償の愛に倣うために

例をあげるならば、冒頭の状況は、それぞれ無関係ではなく、「グローバル化した新自由主義」が根源的原因の一つではないかと思います。

新自由主義とは、「企業活動の自由を最優先させ、本来政府が持つべき、人々の生存権、人権、そしてセイフティーネットに対する責任を放棄して、すべてを市場での競争、または企業・民間活動に任せ、ひいては個人の自助努力に帰する」と言った考え方です。その本質は、「強いられた競争、敗者の排除、そして市場至上主義の帰結として、すべてのものの価値、最終的には人の価値でさえ、市場で決定され、市場で価値づけされないものは排除される」ということです。

この考え方は、「その人の能力や仕事に関係なく、例外なく人が人として大切にされる」という福音的な価値観、神の無償の愛と真っ向から対立しています。


私たちは、この構造とメンタリティーを、少しでも可能なところから変革することに呼ばれているのだと思います。もちろん、そのためには、苦しみの中、不正の中にある人々と実際に少しでも接することが重要であり、彼らとの関わりの中でこそ、光を見出せると思います。


私たちの生活自体がその罪の構造を基盤に営まれているわけですから、その変革の取り組みは私たちの生活基盤を壊すことになり、困難を極めるでしょう。

それでも、可能なところを探し続け、あきらめないことです。

そして、この困難な歩みこそ、十字架を担うキリストに従い、社会の一つの最前線(フロンティア)に赴くことではないでしょうか。

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