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アドルフォ・ニコラス神父
帰天三周年の説教

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アドルフォ・ニコラス師が主のみもとに帰られてから三年を迎え、感謝しつつ追悼するにあたり、福音がニコの好きな言葉の一つであった「奉仕 」について語るのはふさわしいことです。「奉仕」はもちろんのこと、とてもイグナチオ的な言葉です。ラ・ストルタでイグナチオは、おん父がイエスに「この人をあなたのしもべとしなさい 」と言われるのを聞きました。するとイエスはイグナチオに、「私たちに仕えてほしい」と言われました。イグナチオは『霊操』の頂点である『愛を得るための観想』の中で、「全てにおいて主なる神を愛し、仕える事ができるため」という恵みを求めて祈るよう私たちに勧めています (霊操233) 。ニコ自身は、最終的に日本に帰国し、ロヨラハウスに入る前に、霊的遺言のような形で「私はいつも、他者に奉仕するように私たちを招く文章が好きでした」と書き、今日の福音の最後の文章を「奉仕の中心的テキスト」と呼び、結んでいます。

ある聖書学者が「従順なしもべのたとえ」と呼ぶこの福音書は、ニコラス師がその人生をかけて生き、証しした奉仕の3つの側面を私たちに思い起こさせています。

第一に、このたとえ話に登場するしもべは、主人への奉仕に完全に専念しています。畑を耕し、羊の世話をし、家に帰ると、何事もないかのように、ためらいもなく、不平もなく、主人の昼の食事を用意します。奉仕とは、他者の必要に応えて自分を捧げることであることをしもべは教えてくれます。

これこそ、ニコの生き方です。彼は総長になることを望んでいませんでした。自分は年を取りすぎていると、みんなに言っていました。第三五会総会でニコが選出された日、彼の隣に座っていたベン・ネブレス師は、開票が進み、ニコが自分の名前を何度も読み上げられるのを聞くごとに、頭と肩をどんどん落としていき、まるで大きな重りが、のしかかっているのように見えることに気がつきました。しかし、集計が終わり、自分が兄弟たちに選ばれたことがわかると、ニコは背筋を伸ばし、落ち着いて総会の意思を受けとめるために歩みを進めました。

一年後、マニラで行った説教の中で、ニコは人生を変えたその瞬間の自分の心の動きを説明しました。「総長に選ばれたとき、私は、これは主が私に下さった「与えつくす」ための最後のチャンスだと感じました。その可能性を今まで考えたことはありませんでした。しかし、その日が近づいてきて、事態がややこしくなりそうだと感じると、私は、簡単に辞退できると確信しました。しかし、いざという時になって、私は逃げ出すことができませんでした。これが最後のチャンスだと心の底から思ったからでした。これを受けるか、人生の最終便を逃すか。それは、与える時、愛する時、仕える時、受け取ったものすべてに感謝する時、お返しする時、いや、むしろ主に引き受けてもらう時でした」。彼は、その時の反応を次のようにまとめています。「イグナチオの締めの言葉は、いつもこうです。『すべてを捧げるか、我が道を行くか 』」。


2012年にナイロビでニコが、イエズス会の健全さと未来は、イエズス会が「イグナチオのように、すべてを主に捧げる能力」を持ち続けるかどうか、これだけにかかっていると主張したのも不思議ではありません。彼は、多くの優れたイエズス会員がいる一方で、「私たちが望む以上に」、「よく働き、十分になすべきことを果たす」会員がいるが、すべてを捧げるというマジスの精神を失くした会員もいることを残念に思いながら指摘しました。彼は、もし現代においてイエズス会が再び創立されるのであれば、次のことが必要であると主張しました。「まったく聖霊に委ねながら、マジスの、神の国の、そして教会の人間となることができるように、霊的深さを有した私たちのはじまりの時のあの精神にかなった生き方をする必要がある」と言いました。

第二に、たとえ話に出てくるしもべは、感謝を期待したり、功績を讃えられたりすることなく奉仕します。彼は、「私を見てください。私はこれだけのことをしている。これだけのことを成し遂げた。これだけの犠牲を払っているのだ 」と決して言いません。彼の奉仕は、謙虚で無償なのです。すなわち、エゴによって自分に焦点を当て、自分を宣伝することもなく、名誉や権力を手に入れるために奉仕を利用することもありません。
 
謙虚で自由な奉仕、これもニコ神父の人生の特徴です。ここ数日、私は彼がアルペ国際神学院の神学生たちに与えたアドバイスについて考えています。彼はこう言いました。「自分自身でありなさい。自分自身であれば大丈夫です。ただ、キリストに触れていただけるように、そしてあなたの人生にキリストを迎え入れてください」。考えれば考えるほど、これはニコが若いイエズス会員のために謙遜とは何かを言い換えたものだと思います。「自分自身であれ」とは別言すれば、それ以上でもそれ以下でもなく、自分であることに満足すること。何か優れたものであるかのように装う必要がないこと。無理に自分の価値を印象づけたり、競争したり、証明したりする必要もありません。逆説的ですが、ただ自分自身でいることで、自分のことに囚われる必要がなくなり、自由に他者に目を向けることができるようになります。キリストを受け入れることで、ニコが「最も大きな注意散漫」と呼ぶ自己への執着からあなたを解き放ちます。

おそらく、これがニコの秘訣だったのでしょう。ニコ神父ほど、エゴや目立つことを求める騒々しさから解放された人に会ったことがありません。彼は常に自分自身であった人でした。シンプルで、透明で、飾り気がなく、特別扱いされたいということがない人でした。彼には地位も関係ありませんでした。相手が枢機卿であれ、料理人であれ、ニコはいつも同じニコでした。彼は、自分の功績を語ることも、リーダーの役職を主張することも、何を書き、どんな働きをしてきたかを言いふらすようなことは決してありませんでした。彼は、上司であることをかざすことなく、協力者に助けを求めることを決して恥じることはありませんでした。彼は、イエズス会の総長につけられた「黒い教皇」というあだ名を深く嫌っていました。なぜなら、それが大げさで、会と総長の重要性をいたずらに強調するものでしかないと考えました。一度などは、シンガポールからローマへ一緒に帰国する際、ドバイ空港の搭乗口で、私はビジネスクラスにアップグレードされていたのに、彼はアップグレードされていなかったことがありました。アップグレードを彼に譲ることも、彼と席を交換することもできなかったのですが、彼は笑顔で「どうぞ、アップグレードを楽しんで」と言いました。つまり、アシスタントがビジネスクラスで、総長がエコノミークラスに座ったのですが、彼にとりそんなことはまったく問題ではありませんでした!彼がより深刻に心配していたことは、イエズス会やイエズス会の教育機関が、大げさなまでに「成功」に取り憑かれていることでした。彼は、失敗と、失敗の経験のみが可能にする深みこそ大事にするよう幾度となく提案しました。

エゴからの解放は、外に目を向け、他者に関心を抱き、貧しい人々のニーズや世界の苦しみに心を向ける自由を意味しました。私は彼が、私たちイエズス会員は教会と世界のニーズを理解しようと努めるべきであり、私たちの唯一の質問は「どのように助けることができるか」であるべきだと繰り返すのをしばしば耳にしました。

最後に、たとえ話の中のしもべは、奉仕は喜びであることを私たちに教えてくれます。ニコが愛したこのたとえ話の印象的な最後の文章は、しばしばうまく訳されていません。しもべはこう言います。「わたしどもは取るに足りないしもべです。しなければならないことをしただけです」。しかし、聖書学者のケネス・ベイリーは、次のように指摘しています。「取るに足りない」とか「役に立たない」は、ギリシャ語の "achreios "の不正確な翻訳で、文字通りは「必要ない」という意味になるということです。ベイリーは、パレスチナの村人たちが今日でも使っている言い方を参考にしながら、従順なしもべの言葉をこう言い換えています。「私たちは、支払いも報酬も必要ないしもべです。主人は私たちに何も借りはありません。しなければならないことをしただけです」。これは、偉大な主人に仕えることを喜び、光栄に思うしもべの叫びです。これは、仕える人を愛する者の満たされた心からの叫びであり、それゆえ、仕えることそのものが喜びなのです。

私たちがニコのことを最もよく思い出し、大切にしている姿は、彼の喜び、笑顔、笑い、ジョーク、思わず笑ってしまうユーモアのセンスかもしれません。そのおかげで彼と友達になるのはとても簡単でした。しかし、ニコの喜びには、浅はかさや表面的なものはありませんでした。総長として深刻な問題や終わりのない問題に直面しても、彼が穏やかさを失ったり、微笑む力を失ったりするのを私は見たことがありませんでした。2018年10月に上石神井で最後に会ったとき、彼の病気が進行し、かなり衰えたことは明らかでしたが、笑顔、喜び、人生への、友人への、そしてイエズス会への関心はまだ健在でした。長年にわたって交わした会話の中からヒントを得て、私が確信しているのは、ニコの喜びは、単に生まれつきの明るい性格の結果ではなく、犠牲を払った上での恵みの賜物であり、常に自分を律し、十字架にかかって自分に死んだ努力の実りでした。

イエズス会の入会候補者に求める数々の資質のうち、次のようなことが最も重要であると彼が書いたのは、驚くことではありません。「私たちは、完成しきった聖人を求めていませんが、他者への奉仕を人生における十分な報酬として受け取り、自分の行動や存在に対する絶え間ない賞賛を追い求めない人が欲しいのです。私たちは冗談好きな人を求めているのではなく、深いユーモアのセンスを持ち、教会や共同体、あるいは上司との間で困難に遭遇したときであっても、自分自身を笑い飛ばし、希望を持って微笑むことができる人を求めています」。

完全な自己贈与である奉仕。謙虚で自由な奉仕。喜びそのものである奉仕。これこそ、イエスがこの短いたとえ話で教えていることであり、ニコがその言葉と生き方で私たちに教えてくれたことです。

2008年に、ニコが総長に選出された後、当時の英国管区長であったマイケル・ホルマン師は、私にこうささやきました。「ねえ、私たちは聖人を選んだようだね?」ニコが好まないだろうと思い、このことを彼には話しませんでした。しかし、彼が亡くなって3年目の今、この問いを公にすることができるのは、2つの理由があるからです。

第一に、聖人とは主と結ばれている人のことです。ブルトマンは「新約聖書では、報酬は求めない人に与えられるものだ」と印象深く語っています。ニコはこの世で自分のために報酬を決して求めませんでした。だから私たちは、この忠実で自由な主のしもべが、今、永遠のいのちという報いと、愛する主とともに尽きることのない喜びを享受していると信じています。

第二に、聖人とは、その記憶が私たちを主へのより深い追従へと招く人です。世界CLCの会長は、ニコラス師に会うたびに、「より良い人間になりたいという深い願望が残る」と書いています。それは、私とて、同じことです。神よりの類まれな賜物を受けた、この忘れがたい人物であるニコの記憶が、いつも私をより良いイエズス会員になりたいと思わせるのです。今日、一緒にニコを思い出しながら、私たちの兄弟であり友人であるアドルフォ・ニコラスのように、より寛大で、より謙虚で、より自由で、より喜びあふれる奉仕者となるように、私たち皆が奮い立たせられますように。


ダニエル・パトリック・フアン SJ

酒井陽介 SJ訳
 

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